「腹筋、背筋で死んだヤツはおらん」 冬でも海岸ダッシュ…大投手生んだ“田舎の環境”

元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】
元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】

山口高志氏は高2春の兵庫大会で強豪相手に2戦連続ノーノー達成

 日本球界で最も速い球を投げたとも言われる伝説の右腕、元阪急(現オリックス)投手の山口高志氏(関西大学硬式野球部アドバイザリースタッフ)は、神戸市立神港高校時代から片鱗を見せていた。1967年、2年春の兵庫大会では、強豪校の東洋大姫路と育英を相手に2試合連続ノーヒットノーランを達成。この裏にはピッチングフォームを指導してくれた恩師の存在と神戸市西区に完成した野球部専用グラウンドが大きく関係していた。

 1966年、市神港に入学した山口氏は「学校が面白くなかったので5月頃に約2週間近く、不登校になった」が、担任の先生や両親に説得されて“改心”し、野球部復帰も果たした。1年夏は出場できず、秋から投手兼外野手として試合にも出るようになった。秋の兵庫大会は準々決勝で報徳学園に0-4で敗れたものの、この頃から関大OBの高木太三朗監督によって、山口氏は徹底的に鍛えられていく。なかでも下半身強化のためのトレーニングはハードだった。

「冬場は学校から路面電車を使って須磨海岸に移動。おふくろに作ってもらった砂袋を腰に巻いて砂浜を毎日走らされました。すごいしんどかったですよ。冬は『腹筋、背筋で死んだヤツはおらん。だから死ぬまでやれ』って腹背筋とランニングばかりでしたね。あれでスタミナはついたと思います」。さらに投球フォームは「上から叩け!」。真上から投げ下ろす山口氏の独特な投球フォームの基礎もこの時期に作られていった。

 山口氏にとって、1年冬の1967年2月に神戸市西区押部谷町栄に野球部専用グラウンドが完成したのもプラスになった。「自分たちでマウンドを作ったりするような状態でしたけど、学校から電車で30分くらいはかかる。練習が終わったら急いで整備して、また電車に乗って帰ってこなければいけないので、先輩たちが俺たちに説教する時間がなくなって練習自体が怖くなくなったんですよ」。練習内容がハードでも、楽しく野球をやれたのが何よりもよかったそうだ。

2年秋に兵庫大会優勝、近畿大会4強で1968年選抜出場

「のどかでしたもんね。練習中に野ウサギがグラウンドを横断したり、ファールボールもイチゴ畑に落ちるから、拾いに行って農家の人がいなかったら1個つまんで食べたりね。みんなでワイワイやれると、野球にも熱が入っていった感じでしたよ」。そんな環境と練習が山口氏をどんどん成長させていった。2年春の兵庫大会では1回戦・東洋大姫路、2回戦・育英に、何と2試合連続でノーヒットノーランを達成。結果もついてきたわけだ。

 しかし、山口氏は「ノーヒットといってもフォアボールをいっぱい出してますからね」と話す。特に育英戦は8四球。「2試合連続ノーヒットノーランで自信になったという表現も何か合わないなぁ。何かをつかんだってこともない。ただ勝ちたかっただけ。夢中になって投げた? その表現が正しいかも。まだその段階ですね」。それよりも、注目を集めながら準決勝で三田学園に1-5で負けたことが悔しかったという。

 三田学園には1学年下に山本功児内野手(元巨人、ロッテ)がいたが、ここが市神港にとって壁になった。2年夏の兵庫大会は4回戦で敗退したが、その相手が三田学園。山口氏は9安打を浴び、0-4で敗れた。それだけにうれしかったのは2年秋の兵庫大会決勝で、その宿敵を夏とは逆に4-0で破ったことだ。山口氏は4安打2四球で完封勝利を飾った。「負けた時より、勝った時の方がよく覚えている。それまでが悔しかったからでしょうね」。

 気がつけば、高校でもかけがえのない仲間ができた。「先日もその頃の同級生と集まったんですが、いまだに、あの頃はどんなにしんどい練習をしても楽しかったなって話になりましたよ」。近畿大会に駒を進めた市神港は準々決勝を突破。全員の力を結集して翌1968年春の選抜出場切符を手にした。チームのムードをアップさせた“イチゴ畑と野ウサギ効果”もあったのかもしれない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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