エリート会社員が40歳手前で教員免許 原辰徳の亡き母に誓った甲子園…村中秀人氏の監督生活

2023年夏の甲子園で指揮を執った村中秀人氏【写真:産経新聞社】
2023年夏の甲子園で指揮を執った村中秀人氏【写真:産経新聞社】

村中秀人氏が影響受けた“原野球”…1974年甲子園での采配に衝撃

 先月に定年を迎えた高校野球の名将、東海大甲府高(山梨)の村中秀人氏は、4月から総監督としてチームを俯瞰する立場になった。ゆとりの時間が生まれたいま、何を思うのか――。高校、大学時代に薫陶を受けた恩師、原貢氏(故人)をはじめ高嶋仁氏(元智弁和歌山監督)や山下智茂氏(元星稜監督)、佐々木洋監督(花巻東)らとの交流で丹念に収集した人間教育について聞く。【全2回の後編】(取材・構成=木崎英夫)

 昨夏の山梨県大会を約1か月後に控えた5月31日、村中氏に訃報が届いた。親友、原辰徳氏の母・勝代さんが89年の天寿を全うした。近親者のみの葬儀告別式となっていたが、電話をせずにはいられなかった。

「お母さんは病院から家に戻ってきたから。僕もいるよ。おいでよ」

 実家に戻った辰徳氏と話し終えると、甲府から車を飛ばした。辰徳氏の妹、詠美さんが面布を上げ、言った。「お母さんはいつも村中さんのことを心配していましたよ」。こみあげる感情を堪え、村中氏は胸の中で勝代さんと2014年に他界した恩師・原貢氏に誓った。「最後の夏を甲子園で終えます。見ていてください」。

 7月8日からの県大会を前にして、村中氏は、高校野球の世界で独特な光彩を放った原貢氏の雄姿を何度も思い浮かべたという――。福岡県の三池工業と東海大相模を率いて夏の甲子園を制覇。複数の高校で全国の頂点に立った史上初の監督は、どんなピンチでも動じなかった。大胆不敵な勝負魂に村中氏が衝撃を受けたのは高校1年夏の甲子園緒戦だった。

 相手は大会屈指の好投手、工藤一彦(後に阪神)を擁する土浦日大(茨城)。延長16回の熱闘となった試合で原監督は土壇場で強硬策に出た。1点を追う9回裏、2死一塁の場面だった。指示したのは「盗塁」。一瞬、ベンチは静寂に包まれた。しかし、見事に成功する。直後に同点タイムリーが出て試合は延長に突入。村中氏は10回から粘投し、最後、サヨナラのホームを踏んだ。

 あの場面で二塁盗塁が失敗すれば、戦犯は監督。高校最後の夏を終える3年生は犠牲者になる。後年、記者はあの時の決断について原貢氏に聞いている。

「選手とは『私と野球で心中ができるか』というスタンスでいましたから、心身を鍛える厳しい練習をしました。あの場面はまさにお互いに信じたことの成果なんです。それともうひとつ。あのサインには勝算がありました。ツーアウトになった時、相手のベンチが荷物をまとめはじめていた。そういうところを私は見逃しませんから。あそこでグランドの選手にも絶対に気の緩みは出ていると読んだのです」

村中秀人氏【写真:木崎英夫】
村中秀人氏【写真:木崎英夫】

時代に沿って変わった指導「大事なのは普通の言葉で気付かせてあげること」時代に沿って変わった指導「大事なのは普通の言葉で気付かせてあげること」

 半世紀前の高校野球は、まだ“気合入れ”の許容の余白を残していた時代にあった。原貢氏がそれと無縁だったわけではない。が、古色を帯びた、戦後からずっと引きずる精神野球とは明らかに一線を画す野球理論と指導理論を持っていた。「スクイズではなく外野フライで1点」、「塩分と水分補給の推奨」、「動作メカニズム分析と筋力鍛錬法」、さらには「アメリカ野球の研究」など独自の方法論を日々の練習に反映させた原貢氏は根拠のないスパルタを嫌った。だからこそ選手はついていった。

「既存の枠組み」に収められていた高校野球に新風を送り込んだ原貢氏が遺した「野球は人間性。これをモットーに、私なりに高校野球を追い求めている」は今も記者の耳底に響く。

 年経って、村中氏は時代の流れに沿うしなやかな考えを育んできた。

「昔は、監督の顔色をうかがいながら野球をする高校生が多かった。それは指導者の圧が強すぎるからではないでしょうか。監督生活の35年で高校生が一番変わったなと思うのは精神的なところ。彼らは、鉄拳も叱責もあった時代なんて全く知りません。それだけが理由かは分かりませんが、今の子どもは叱咤に怯え鼓舞したつもりでも泣いてしまう子だっています。なので、大事なのは、普通の言葉で気付かせてあげることなんですね」

 指導者になりたての頃は、選手たちの仰角の視線を真に受けたという反省点があった。

「母校の監督に就任して3年目の91年、秋の関東大会で優勝して翌年の選抜で準優勝しました。順調だと思われがちですが、正直、この頃までは選手に対して上から目線でしたね。『どうしてそんなことができないのか?』というふうにね。でも、指導者にそういう意識がくすぶっている間は絶対に選手と一体になることはできません。それからです、積極的に動いた結果のエラーをよしとするようになったのは。我慢の時期でした」

 推測だが、「どうしてそんなことが」には、自身の輝かしい球歴が心の奥底に澱んでいたのかもしれない――。難攻不落のカーブを武器に激戦区神奈川で躍動した村中氏は、相模原の大野南中学時代から県下にその名を轟かせていた。無安打無失点試合「11度」と完全試合「2度」の驚異的な記録を残している。

ラスト采配で8年ぶり山梨大会制覇…「風林火山。動かざること山の如し」を貫いた

 昨夏の県予選で村中監督はベンチの左奥に据えた椅子から動かなかった。前年までは勝負の潮目と捉える場面では椅子から腰が浮いた。聞けば、明確な理由があった。

「選手たちはお仕着せの野球とはまったく無縁でした。トレーニングにしてもその一つ一つの意味を理解してもらい、取り組む姿勢は素晴らしかった。野球を自分の頭でよく考え心・技・体で成長してきました。なので、好機をどう作るか難局をどう切り抜けるかも彼らは分かっていました。データ班も相手をよく研究していましたし。なので、伝令を送ったのは決勝での一度だけでした」

 チームは準々決勝からの2試合を逆転勝利で決め、決勝で駿台甲府を6-2で撃破。8年ぶりに夏を制した道のりを村中氏は、甲斐国の武将、武田信玄が軍旗に記した兵法「風林火山。動かざること山の如し」になぞらえた。

 そして芝が香る甲子園。選手として4度、監督として10度目となる最後の聖地で感慨を覚える瞬間はなかった。それは、原貢氏の「試合開始前から1分でも他のことを考えたらやられる」の重みを知っているからだ。大会7日目となった初戦でチームは専大松戸(千葉)に5-7で敗退したが、テレビ中継の解説を担当していた高嶋仁氏(元智弁和歌山監督)は「最後と決めた年になかなか甲子園には出られないものなんです。村中監督は立派でした」とねぎらった。

 4月から総監督となり「出会いと縁を大切にする」の信条をより強くしていると言う村中氏は、昨年6月、旧知の坂口慶三氏(元大垣日大監督)の紹介で高嶋仁氏と出会った。夏の甲子園出場が決まった時、誰よりも早くお祝いの電話をくれたのが高嶋氏だった。「会ってすぐ感じたのは人格者ということ。これからも多くを学ばせていただきます」と再会を楽しみにしている。

“縁”は、花巻東高(岩手)の佐々木洋監督である。村中氏の妻、佐智子夫人が花巻南高の出身で実家が花巻東高のすぐ近くということもあり佐々木氏とは10年以上前から定期戦を組む仲である。「佐々木監督は選手のどのプレーも称える。失敗しても『ナイストライ!』って。選手が気を抜くわけがありません。彼は冗談好きで気さくな熱血漢」と評する。他にも敬愛する指導者はいる。その代表として、松井秀喜を育てた星稜高(石川)の山下智茂元監督を挙げた。

「相模の監督時代に練習試合で初めて来ていただいた時、山下先生は到着すると学校の中を一回りして一言。『強くなるよ』って。理由を聞くと、『細部に渡る視線と実行力が掃除で分かるんだよ。間違いなく野球に通じてるからね』と、真剣な顔で言っていただいて。初対面の時から偉ぶるところなんて微塵もなくて、ずっと励ましてくれるんです。人間力を感じます」

「なりたいものへの情熱に体裁はない」40歳近くで教員免許を取得

 プリンスホテルで将来を嘱望されつつも高校野球の指導者の道を選んだ村中氏は、東海大相模監督時代の最後2年は教員免許を取得するために再び大学に通った。午前中は教職課程を履修した。授業が終わると高校の教え子が「こんにちは」と声をかけてくる。最初は気恥ずかしかったが「なりたいものへの情熱に体裁はない」と40歳近くでの決断が揺らぐことはなかった。

 山梨に来て一番の喜びは、公立高校の監督や関係者から「教師と野球の指導者」として温かく迎えられたことだった。高校野球の監督には教員免許は必要ないが、「輝かしい球歴にあぐらをかかない」姿勢が共感を呼んだようだ。今後は、全国の東海大系列高野球部のコーチングアドバイザーとして指導者の育成にも当る村中氏は「山梨県の高校野球の底上げに向け公立高との交流の輪をさらに広げていきたいのです」と意欲を示す。

 ホテルマンを辞して高校野球の指導者としてまた教諭として歩んできた村中秀人氏は電話の最後をこう結んだ。

「最後の授業直後に思ったのとまったく同じ。やりきった」

 この言葉に思い至った。衰えぬ情熱と、それを担保して然るべき努力があれば、必ず、相応の結果がもたらされるはずである。

 告白すれば、今回ほど筆を起こせないことはなかった。理由は、わが青春譜の感慨が邪魔をしたからだ――。桜の花が舞う高校1年の4月だった。入学して数日が経った練習後、2年生の小さな大投手から予期せぬ言葉をもらった。「あしたから毎日ブルペンで受けてほしい」。

 この原稿を書く機会に恵まれたのもまた“縁”であろう。

○著者プロフィール
木崎英夫(きざき・ひでお)
1983年早大卒。1995年の野茂英雄の大リーグデビューから取材を続ける在米スポーツジャーナリスト。日刊スポーツや通信社の通信員を務め、2019年からFull-Countの現地記者として活動中。日本では電波媒体で11年間活動。その実績を生かし、2004年には年間最多安打記録を更新したイチローの偉業達成の瞬間を現地・シアトルからニッポン放送でライブ実況を果たす。元メジャーリーガーの大塚晶則氏の半生を描いた『約束のマウンド』(双葉社)では企画・構成を担当。東海大相模高野球部OB。シアトル在住。

(木崎英夫 / Hideo Kizaki)

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