顔面死球で「仕返ししたろ」 謝罪なき巨人エース…15年後に“再燃” 伊勢孝夫が吹っ飛ばした眼鏡

ヤクルトなどでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】
ヤクルトなどでプレーした伊勢孝夫氏【写真:山口真司】

1978年、伊勢孝夫氏は巨人・堀内に顔面死球を受け、救急車で搬送された

 遺恨が勃発した。1978年、広岡達朗監督率いるヤクルトは球団創設29年目にして初のリーグ優勝と日本一に輝いた。プロ16年目だった伊勢孝夫氏(野球評論家)にとっても初めて栄冠を体験。代打を中心に渋い働きでチームに貢献したが、このシーズンでは痛い思いをしたことも忘れられないという。7月10日の巨人戦(神宮)で、堀内恒夫投手から左頬に死球を食らい、救急車で搬送されたことだ。しかも、この一件は時を経て強烈な乱闘にもつながっていた。

 ヤクルト移籍2年目、プロ16年目の伊勢氏は73試合出場で打率.262、2本塁打、16打点。リーグ優勝を果たしたレギュラーシーズンでは、5月28日の広島戦(広島)で3-4の8回に江夏豊投手から値千金の代打逆転3ランを放った。阪急との日本シリーズでは1勝2敗で迎えた第4戦(10月18日、西宮)に、4-5の9回2死から代打で遊撃内野安打。デーブ・ヒルトン内野手の逆転2ランにつなげた。

「あの日本シリーズは(ヤクルト本拠地・神宮球場が大学野球の関係で使えず)後楽園を借りてやったけど、最後(第7戦、10月22日)は(6回に)大杉(勝男内野手)のレフトポール際のホームランがファウルかフェアで長いこと(79分中断)もめましたよね」と伊勢氏は阪急・上田利治監督の猛抗議も含めて懐かしそうに振り返った。自身にとっても初のリーグ優勝&日本一。印象深い年だったのは間違いないが、さらによく覚えているのが7月10日の巨人戦だ。

 9回7-7の引き分けで終わった試合。初回に巨人のジョン・シピン内野手がヤクルト先発の鈴木康二朗投手からの死球に怒って乱闘劇を引き起こし、退場になるなど両軍には不穏なムードも漂っていた。5回には大杉がファウルチップを顔に当てて救急車で搬送されるアクシデントも発生。そして8回に大杉に代わって途中出場の伊勢氏が、巨人の2番手・堀内から左頬に死球を受けて救急車で運ばれた。

「慶応病院に行ったら、大杉がいて『おお、伊勢、お前もか』って言われたんですけどね」。幸い軽傷で球宴明けから復帰できた伊勢氏は死球を受けたことはしかたないと割り切っていたそうだ。しかし「その後、堀内から顔を合わせても、ひと言も何もなかったのにはカチンと来ていた」と明かす。3歳年下の堀内に面と向かって、何か言ったりすることはなかったものの、この一件はずーっとくすぶったまま、時が流れていったという。

1993年の乱闘で遺恨再燃…「堀内に『この野郎って』」

 その気持ちが再び爆発したのは、15年後。1993年9月19日の巨人-ヤクルト戦(東京ドーム)だった。伊勢氏は野村克也監督の下でヤクルト打撃コーチ、堀内は長嶋茂雄監督の下で巨人投手コーチと立場が変わっていた中で、それは起きた。0-8とヤクルトが大量リードを許していた8回、巨人・橋本清投手が代打・金森栄治外野手の背後に投じたシーンだ。

 前日(9月18日)の同カードでマウンドに行った掘内コーチを金森が野次ったのもあってのこととも言われているが、このとんでもないボールに金森は怒りをあらわ。マウンドに歩みよると、両軍が飛び出しての大乱闘となった。この時に“伊勢vs堀内”が勃発した。「金森がピッチャーに向かって行こうとしたら、堀内もバーって出てきたんです。それでもめている時に、堀内が金森のヘルメットを取り上げてパコーンとどつきよったんですよ」。

 それを見て伊勢コーチの怒りも頂点に達したという。「私は真ん中くらいまで行って、堀内に『この野郎』って。それで堀内のメガネが飛んで……。現役の時のデッドボールで謝りもしないから、絶対仕返ししたろうと思っていた。その時は思い切りどついたったです」。堀内コーチは伊勢コーチからだけではなく、ヤクルト勢のターゲットにもなったようで、ひとりだけユニホームがビリビリに引き裂かれていた。

 もちろん、暴力行為は褒められたものではないが、当時はこのような激しいシーンが、ヤクルトと巨人に限らず、いろんなカードで起きていた時代ではある。乱闘直後にグラウンドに落ちていた堀内コーチのメガネをルーキーの巨人・松井秀喜外野手が拾ったことでも知られる一件でもあるが、それにしても1978年の死球と1993年の危険球がつながることになるとは……。伊勢氏にとって、これも忘れられない熱い思い出だ。

【実際の写真】両軍が飛び出し大乱闘「堀内がどつきよった」 メガネ吹っ飛び…巨人とヤクルトがもみ合う場面

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