「ロッテ以外ならOK」でまさかの指名の初芝清 会社は入団難色…喜びのはずが呼んだ反発
初芝清氏は補強選手で3年連続都市対抗に出場
「歓迎はされませんでしたね」。ロッテ一筋17年で「ミスターロッテ」と愛され、現在は社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。社会人の東芝府中4年目にロッテからドラフト4位指名されたものの、会社側がプロ入りをなかなか認めてくれず、粘り強く説得したという。
初芝氏は二松学舎大付高(東京)から東芝府中に入社した。所属チームでは勝ち上がれなかった都市対抗に2年目はNTT東京、3、4年目にはプリンスホテルの補強選手として3年連続出場した。時代はバブル。“特別待遇”に目を丸くした。
「補強は、もちろん手当てが出ます。20万円ぐらい。その上でお金を使わないで済むのです。言ってみりゃボーナスみたいなもの。食べたら領収書、どこに行くのもタクシーに乗って領収書。それを全部立て替えてくれる。食事なんて“天国”でしたね。特にプリンスなんて、プロ予備軍ですよ。朝からバイキングでした」
補強先の大盤振る舞いに応え、結果もきっちり残した。1987年の都市対抗。2回戦の本田技研戦では8回2死から代打で登場し、スライダーを右翼席まで運ぶ同点アーチをかけた。さらに延長11回には安打で出塁し、後続の決勝打を呼び込んだ。
高校時代からプロ志望の初芝氏だったが、ドラフト指名解禁の社会人3年目は「まだ自分のチームで貢献できていない」と残留。翌年の1988年は満を持してプロ入りを会社に申し入れた。「もう絶対に行くと決めてました」。意志は固かった。
初芝氏を擁しても都市対抗出場がままならぬ東芝府中側は、主砲を簡単に手放す訳にはいかない。ドラフト前にプロ入り許可の条件を提示した。「関東の球団」「ドラフト3位以内」「ロッテ以外」の3つ。「ロッテは東芝府中からプロに行った選手たちがあんまり使って貰えなかったそうなんです。3冠王3度の落合(博満)さんは別ですけど。僕はプロで出れる出れないはその人次第で、出身の会社は関係ないでしょ、と思いましたが」。
ロッテ入団に会社は難色も…「東芝府中の名前を広めます」
迎えた11月24日のドラフト会議。事前の動向では10球団から調査書が届き、特に広島が熱心だった。「衣笠(祥雄)さんが前年に引退されていた。でも蓋を開けたら駒大の野村謙二郎(元広島監督)が1位でしたね。内野手が獲れたので、僕は消えたようです」。期待させられながら指名がなかった高校時代の悪夢が頭を過ぎる。
そこへロッテが指名してきた。ただし4位。「3条件で当たっているのは関東だけ。しかもロッテ以外ならOKなのにピンポイントでロッテ。『さー、困った』でした」。その上、ロッテ3位は大学生。「大学4年生は高卒4年の僕と同学年。会社の方々はなんで社会人が同学年の学生より下位の評価なんだ、と怒る。そこもネックでした」。嬉しいはずのドラフト指名なのに反発を呼ぶばかりだった。
初芝氏が「僕はずっと意思表示をしています。プロに行かせて下さい」と懇願しても、会社サイドは「ただでさえ今は弱いのに主力のお前に抜けられると困るんだ」と跳ね返す。高校の先輩で当時はマネジャーを務めていた仲村恒一氏(後に日大監督)が味方に付いてくれた。「2人でタッグを組んで『きょうの交渉では、この感じで行こう』と説得する材料を考えて貰ってました」。それでも堂々巡りが続いた。
初芝氏と仲村マネジャーの作戦会議も、もはや手詰まり。「もう最後の最後でこれを言って駄目なら諦めよう、となりました。それが『僕がいろんな所で東芝府中の話をして、会社の名前を広めます』です」。藤田明彦監督(現・明星大監督)が「そこまで言うんだったら」と、やっと折れてくれた。
執念のロッテ入り。実は本音は「えー、俺あそこに行くのかー」。というのは、ほんの1か月前に伝説の「10・19」があったからだ。川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダー。近鉄が連勝すればパ・リーグ優勝だったのだが、2戦目がドロー。ロッテは劇的なエンディングを壊す“憎まれ役”を演じる形になっていた。
「あの時、僕は寮で麻雀をやってました。ラジオをつけていて実況中継が聴こえてくる。そしたらアナウンサーがそりゃあもう近鉄贔屓で、ロッテをぼろくそに言うわ言うわ。だから優勝を阻止したロッテって悪いイメージしかなかったんですよ」
とにもかくにも初芝氏は熱望してきたプロの扉を開けた。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)