阪神外野手が衝撃発言…肉離れは「怪我じゃない」 元ドラ1が社会人で復活の理由

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

的場寛一氏は2012年に現役引退…阪神で6年、トヨタ自動車で7年プレーした

 元阪神の的場寛一氏は2012年に社会人野球・トヨタ自動車で現役を引退した。1999年ドラフト1位(逆指名)で入団した阪神で6年、トヨタでは7年プレーしてユニホームを脱いだ。力の限界を悟ったからではない。前年の2011年には「第39回IBAFワールドカップ」の日本代表に選出されたし、35歳だったラストシーズンも4番打者として活躍していた。そんな中で、あえて自らケジメをつけたという。

 的場氏は28歳の2005年に阪神を戦力外となり、2006年からトヨタ自動車入りした。阪神時代に痛めた右肩は万全ではなく、守備は一塁に限定されたが、打撃で力を発揮した。2007年、2008年、2010年には4番打者として社会人野球日本選手権大会優勝に大貢献。2011年はIBAFワールドカップの日本代表選手にも選出された。阪神では左膝痛、右肩痛など絶えず怪我につきまとわれたが、トヨタでは主力打者としてコンスタントに成績も残した。

 その間に、もう一度NPBに復帰したいと考えたことはなかったのだろうか。「よく言われるんですけど、もう肩が……。僕は(走攻守)3拍子揃ってなければ駄目な人間なんで」と笑う。阪神ラストイヤーに右肩関節唇損傷と診断されても手術しなかった。プロ入りしてから怪我の連続で、また手術させてほしいと言えなかった。「僕は1軍で24試合でしたが、肩が大丈夫だったら(阪神で)500(試合)は出ていたんじゃないかなぁとか……。タラ、レバですけどね」。

 2010年日本選手権では準々決勝の三菱自動車岡崎戦、決勝のJR九州戦で本塁打を放つなど、打力アップが目立った。「バッティングは30歳になってから成長していたんでね」。社会人では怪我に苦しまなかったが、これには2002年オフに広島から阪神にFA移籍してきた金本知憲外野手の影響もあったという。「金本さんは“肉離れなんて怪我じゃない”って。肉離れしたら他の筋肉で補えばいいっていう解釈。僕がトヨタ自動車に入った時はそのマインドでした」。

2011年に日本代表入りも…35歳での引退は「決めていたんです」

 阪神時代にはそう考えられなかった。「若い時の怪我の解釈と、ある程度、ベテランになって、こういう時はこうしたらいいなという引き出しができてからの違い。こういうやり方もあるやんっていうのがあるか、ないかの違い。僕が若い時はそういう情報もなかったし、同じように膝を痛めている選手とのつながりもなかった。だから策も少なかった」。それが社会人入りしてから変わった。自身の怪我との向き合い方も変わり、新境地を開いたわけだ。

 2011年は10月にパナマで開催されたIBAFワールドカップに日本代表として出場。「(九州共立)大学の時に行ったワールドカップ(1998年第33回大会)にまた呼んでもらって勝手に縁を感じるなぁって思いながら日の丸のユニホームを着ました」。現在もオリックスで現役の安達了一内野手(当時東芝)、元西武の十亀剣投手(当時JR東日本)らとチームメートとなって戦った。予選リーグで敗退したものの「プロを目指す選手ばかりで楽しかったですよ」と話した。

 的場氏はその翌年の2012年限りで引退したが、その年も4番に君臨していた。準決勝で敗退した日本選手権も「4番・指名打者」で出場。それでもユニホームを脱ぐ決断をした。「僕ね、決めていたんですよ。プロ野球が6年だったので、社会人は1年でも多くしたろうと思って7年で、ってね。35歳まで野球をやって、それからは一般教養じゃないですけど、同世代からビジネススキルなど遅れている分、取り返したいと思った。だから元気でも引退しようとね」。

 周囲からは引き留められたそうだ。「まだまだ全然できるやんって言われました」。それでも引退の考えは変わらなかった。「僕は子どもの頃から4番でエースとか、そういう感じでもなく、その時の風が吹いての環境で、それなりにやる方だったと思う。高校も大学も決められて、とはいえドラフト1位でプロに入って……。全然活躍せーへんかったけど、社会人に呼ばれて、4番で終わるというのも何か僕らしいかなと思いますね」と“野球選手生活”を振り返った。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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