2位で指名されず「あれ、違うやん」 外れた予想…元阪神・濱中治の「悲しい思い出」

阪神で活躍した濱中治氏【写真:山口真司】
阪神で活躍した濱中治氏【写真:山口真司】

濱中治氏は和歌山・南部高から1996年ドラ3で阪神へ…両親は当初、進学を勧めた

 野球評論家で関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGMも務める濱中治氏は1996年ドラフト3位で和歌山・南部高から阪神に入団した。高校では投手としても活躍したが、高校通算51本塁打の長打力が高く評価され、外野手として指名された。もっとも、そこまでにもいろんなことがあった。当初、両親は大学進学を勧めてプロ入りに反対。ドラフト当日も悲しい気持ちになる出来事があったという。

 南部高では甲子園出場こそ果たせなかったが、伸びしろたっぷりの長距離砲としてプロスカウトから注目された。だが、進路はすんなりプロ1本となったわけではない。「高校3年の春頃から何球団か、見に来てくれているという話は聞いていたんですけど、プロに行くかどうかはすごく悩みました。僕自身、プロ野球選手になるなんて思ってもいなかったし、考えてもいなかったことだったのでね」。まだまだ現実的ではなかったのだろう。

 3年夏の大会が終わった後には「もしかしたらドラフトにかかるかもという話も出てきた」。この頃から徐々に気持ちはプロに傾き始めた。だが、ここで反対の声を上げたのが父・憲治さんと母・恵美子さんだった。「両親は『大学に行ってからでも遅くないんじゃないか、大学でしっかり4年間やってからそこでまた縁があったらプロに行ったらいいんじゃない』って。のちのち聞くとプロ野球の世界で成功するなんてひとつも思っていなかったみたいです」。

 その流れで立命大のセレクションも受けた。「立命館の方には“いつでもきてもらってもいいよ”みたいには言われていました。僕は覚えてなかったんですけどシートバッティングでホームランを打ったそうです。これは僕より1年上で当時、立命館大にいた葛城育郎さんに聞きました。阪神で一緒になった時に『お前、すごかったなぁ』ってね」。これで大学進学の際の進路もほぼ決まり、両親もさらに勧めたようだ。

阪神2位指名を期待も…3位に「何か悲しい思い出」

 それでも濱中氏は納得しなかった。「大学4年間で何が起きるかわからない。(小学6年時から万全ではない)肩が痛くなるかもわからない。そうなった時にせっかくあそこでプロに行けたのにって、後悔はしたくなかったので、両親とバトルじゃないですけど『大学や』『いやプロや』ってなっていました」。話はしばらく平行線だったが、そんな時に藤井寺球場での近鉄対阪神の2軍戦を母と観戦することになったという。

「両親にはプロのレベルを見れば、僕の考えも変わるだろうというのがあったと思います。プロを諦めさせるためにね」。だが、結果は逆の目が出た。その試合のマウンドには阪神左腕・湯舟敏郎投手がいた。「湯舟さんには大変申し訳ないんですけど、スピードガンを見たら135くらいしか出ていなかったんですよ。それでこれだったらいけるかなって思ってしまったんです。プロって145とかのイメージだったので……」。

 1996年の湯舟は5勝14敗2セーブで不調に苦しんでいた。翌1997年には10勝6敗と2桁勝利をマークしており、濱中氏が遭遇したのは調子落ちで2軍調整時期だったようだが、結果的にこれが両親説得につながった。「その後にやっぱりプロに行かせてほしいとお願いして行くことになったんです。立命大の監督にも直接お会いしてお断りしました」。その試合でいつもの“阪神・湯舟”が投げていたら濱中氏は立命館大に進んでいた可能性もあったわけだ。

 迎えた1996年11月21日のドラフト会議。「新聞紙上では阪神が2位でかけるとか出ていたので、僕自身もそうですけど周りも期待していました。そしたら阪神2位が(天理高の)関本(健太郎内野手)。それでカメラとかがみんなバーッと引いていったんですよ。“あれ、違うやん”って感じで……。僕も不安になりました。当時、横浜の方から『次、阪神が行かなかったらウチが獲るので安心してください』って連絡があったそうで、それでホッとしたんですけどね」。

 その後、濱中氏は阪神から3位指名を受けたが「当時は球団に戦略があるとかないとかわからないんでね。高校生を振り回すのはやめてほしいと思いましたよ。何か悲しい思い出のドラフトでしたね」と苦笑する。指名順位に関しては「悔しかったですけど、入ったら横一線なんでね。関本よりは絶対早く1軍に行ってやるぞ、という気持ちにはなりましたね」。いきなり燃える材料もできた上でのプロ入りだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY