自主トレに愕然「お前ら何やっているんだ、帰れ」 目を疑った衝撃の光景「なんだこりゃ」
阪神・淡路大震災が発生した日、星野伸之氏は自主トレで愛媛県にいた
仰木オリックスは1995年、パ・リーグ制覇を成し遂げた。1月17日に阪神・淡路大震災が発生。「がんばろうKOBE」を合言葉に戦い抜いて頂点に立った。野球評論家の星野伸之氏は当時、オリックスのエース左腕。24登板で11勝8敗、防御率3.39の成績で優勝に貢献した。「まさか優勝なんて、何も考えられなかった時だったですけどね……」。被災しながらも応援してくれるファンに力をもらった。いつまでも記憶に残る優勝だった。
地震発生の日、星野氏は自主トレのため阪神・石嶺和彦外野手とともに愛媛県内に滞在していた。「愛媛もけっこう揺れましたし、テレビでニュースを見たら震源地が兵庫県だ、淡路だって……。ただ、その時に映っていたのはあんなにひどい状況のものではなかったんです。それで自主トレに行って、ちょうど昼飯を食べていたら、お世話になっている社長さんから連絡が来て『お前ら何やっているんだ。テレビをつけてみろ、っていうかすぐ帰れ、戻れ』って」。
目を疑った。「高速道路が倒れているのが映っているし、えーっとなって、家に電話したらつながらないし、ヤバって思って、慌てて宿舎に戻って全部荷物をまとめて車で移動した。明石まで行った。夜中の3時くらいに。でも1時間に100メートルしか進まなくて、ガス臭くて……。石嶺さんは奥さんと連絡がついて大丈夫ということだったし、とりあえず寝る場所がないから、もう一度四国に戻りましょうとなった」という。
その後、星野氏も家族の無事を確認した。「北海道(の実家)に連絡したら、ウチの嫁も連絡していたんです。無事だってね。ただ水が足りない、水が欲しいということだった。石嶺さんはそれも大丈夫ということで愛媛に残り、僕一人で運転して帰りました。トランクに水とか缶詰とか詰め込んでね。まだナビがない時で11時間かかりましたね。途中、トラックが兵庫県の上の方に行くから、きっとその方がいいんだろうと思って全部ついていきました」。
戻ってみると信じられない光景が広がっていた。「あるところはゴーストタウンになっていて、ちょっとずれたら大丈夫とか、なんだこりゃっていう感じでした」。そんな中でオリックスナインは2月1日から宮古島キャンプをスタートさせた。当然、誰もが被災地のことを気にしていた。当時、星野氏はオリックス選手会長でナインをまとめる立場だったが「何をしていたかわからない。野球をやっている感じがしなかったですね」と言う。
6月に首位に立ち、そのまま優勝…忘れられぬ冷えたビールでの祝勝会
「本当に野球がやれるのか、やっていいのかというところから始まって、(宮内義彦)オーナーが『こういう時だからお客さんが入らなくてもやるぞ』と言われて神戸でオープン戦を行ったんですけど、皆さん大変な時なのに、一塁側がガバッと埋まって、こんなに来てくれるんだって思って……。そういうところからチームに勢いがついた感じがします。よくファンの人に力をもらうっていうけど、まさに、でしたね」
オリックスは6月に首位に立つと一気に突っ走った。マジック1から足踏みし、本拠地・神戸では決められなかったが、敵地・西武球場での9月19日の西武戦に8-2で勝利して阪急時代以来、11年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。星野氏はその試合に先発し、5回1/3を2失点で勝利投手になった。「ゲーム差もあったし、そんなきゅうきゅうな気持ちで投げていませんでしたけどね。ただ神戸でできなかったのが残念だったなぁというのはありましたね」。
その前の9月17日のロッテ戦(GS神戸)は、7回途中までオリックスが3-1とリードしながら8回にリリーフエースの平井正史投手が打たれての負け。「僕は絶対先発2日前から(酒を)飲まないんですが、あのロッテ戦は途中までリードしていたので、これは(祝勝会などで)飲むことになるな。(19日は)二日酔いみたいな感じで投げるのかな、まぁ、それもいい経験かなんて思っていたら逆転されたんですよねぇ」とも星野氏は振り返った。
歓喜のビールかけ。「あの時ね、ビールがキンキンに冷えていたんですよ。全部ではなかったけど、最初の乾杯のやつとか、みんなが持っていたやつはね。寒い、寒いって言いながらかけていましたよ。まぁ、これも経験がなかったからですよね。次の年はちゃんとぬるいやつでしたから」。がんばろうKOBE。被災した方々を勇気づけるというよりも、逆にパワーをもらってつかんだ感動の優勝だった。冷たかったビールも含めて星野氏の脳裏に深く刻まれている。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)