唖然としたコンバート通告「立浪を使うから」 遊撃ベストナイン獲得も…言えなかった葛藤
宇野勝氏は1988年、中日のベロビーチキャンプでド軍の練習に参加した
元中日内野手の宇野勝氏(野球評論家)は、プロ12年目の1988年にショートからセカンドにコンバートされた。PL学園出身のドラフト1位ルーキー・立浪和義内野手をショートで起用するためだった。米フロリダ州ベロビーチキャンプが終わってから星野仙一監督に監督室で告げられたという。「“えっ”て思った。だって俺、その前の年(1987年)にショートでベストナインだったんだよ」。指揮官指令を了承しながらも複雑な気分だったことを明かした。
1988年の星野中日は沖縄・石川で1次キャンプを行い、米フロリダ州ベロビーチのドジャースタウンに移動して2次キャンプのスケジュールだった。当時高卒5年目を迎えた山本昌広投手が、高卒2年目の西村英嗣投手とともに、そのまま居残って米国留学して覚醒する年でもあるが、宇野氏もベロビーチキャンプ期間中に米国野球に深く触れる機会があった。「落合(博満)さんと俺はドジャースのキャンプにも加わったからね」。
星野ドラゴンズが誇る“オレ流&ウーヤン”コンビは中日キャンプから離れ、ドジャースの一員のようになって練習に参加した。「誰だったかな、向こうのピッチャーの球が無茶苦茶、速くてさ、フリーバッティングで落合さん、ケージから(打球が)出なかったもんね。ホント、あれは速かったよなぁ」。加えて戸惑ったのは練習時間の短さだった。「昼の12時くらいには終わっちゃうからさ、中日の方はまだアップが終わったくらいの頃だからねぇ」。
時間が余りすぎた。「落合さんと2人、ロッカーで『これからどうする』みたいな……。結局、1時間くらいしゃべってから2人でとことこ部屋に帰った。2人、同室だったしね。まぁ太るよね。その上、向こうの飯はカロリーも高いから太っちゃうのよ。ベロビーチにはみんな新しくスーツを作って行ったんだけど俺、帰る時、ハマらなかったもんね。キャンプで太るなんて普通ないよ。落合さんはもともと太っていたから関係なかったんだけどね」。
立浪入団に伴い…星野監督から指令「セカンドをやってくれるか」
星野監督に二塁転向を告げられたのは、そんなキャンプが終わってからだという。「監督室に呼ばれて『立浪、どうだ』って聞かれた。でも俺、メジャーの練習にいたから立浪がどうしていたのか、あまり知らなかったんだよね。とりあえず『まぁ、うまいですねぇ』なんて話をしたら、星野さんに『俺は立浪を打っても打たなくてもショートで使うから』と言われて“えっ”て思ったよ。だって俺、前年度、ショートでベストナインだよ」。
闘将は畳みかけてきた。「『お前をゲームに出さないわけじゃない。セカンドをやってくれるか』って。そうやって言われればさぁ、“嫌です”とか何か言える感じじゃなかったんだよねぇ。ああ、そうなんだぁ、なんて思ったりしてね」。それで宇野氏のセカンドコンバートが決まった。だが、実際のところは複雑な思いがしばらくあったそうだ。
「星野さんはピッチャーだからと思うけど、ショートとセカンドは違うってわかってほしかったね。逆の動きをするわけだから、ゴロならこっち向いたり、ゲッツーはこう行ったり……。ポジションもね、どこ守っていいか、意外とわからないんだよ。最初は慣れなかった。簡単に考えてほしくなかったというのはあったね」。開幕から「5番・二塁」で出場したが、4月は打率.211、1本塁打とバットの調子は上がらなかった。
だが「それは、あまりポジションのせいにはしたくないんだよね」ときっぱり。やると決めた以上、コンバートを了承したからには責任は自分にあるとの考えだろう。4月下旬の広島遠征中にはギックリ腰にもなったという。「なったんだけど、試合には出たんだよ、俺。出て守った。途中で交代してマッサージを受けたことはあったけど、休まなかった。ゲームに出ながら治したよ」。慣れぬ二塁でも精一杯のプレーを続けた。
1988年の星野中日は4月終了時点で最下位だったが、そこから巻き返して、最後はぶっちぎりで優勝した。ショートのレギュラーとして使われた立浪は新人王を受賞した。宇野氏も懸命のプレーで打率.277、18本塁打、76打点の成績を残した。「結局、あの年に優勝したんだからね、俺を二塁にしたのも監督の戦術ってなるよね」。何とか二塁を守り切ってチームに貢献した。そういう点でも、これまでとはひと味違う思い出深いシーズンになったようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)