“因縁の監督”に聞いた冷遇の真相 阪神退団も…またも共闘「考えられません」

阪神などでプレーした上田二朗氏【写真:山口真司】
阪神などでプレーした上田二朗氏【写真:山口真司】

上田二朗氏は南海移籍1年目に6勝→翌年ブレイザー氏が監督に就任

 まさかだった。NPB通算92勝のアンダースロー右腕・上田二朗氏(野球評論家)は1979年、ドン・ブレイザー監督体制の阪神で出番激減もあって、オフに南海へ金銭トレードで移籍した。ところが、移籍2年目の1981年には南海がブレイザー監督体制になり、再びギクシャクムードに。何とも言えない巡り合わせだったが、実はその関係も時を経て変化していた。「のちにね、ブレイザーとアメリカで食事したんですよ」。そこで“雪解け”したという。

 上田氏が移籍した時の南海監督は広瀬叔功氏だった。「広瀬さんは『(ブレイザー体制の)阪神で上田が浮いているということを察知したんで、来てもらったんや』と言ってくれました。ようかわいがってもらいました。大事にしてくれました。けっこう登板もいただきましたしね」。背番号は15。気持ちも新たに取り組み、南海1年目の1980年は11先発を含む30登板で6勝6敗1セーブの成績を残した。

 4月12日の阪急戦(大阪)では3番手で3回を1失点に切り抜けて、移籍後初勝利。4月22日の西武戦(大阪)では先発で起用され、1失点完投勝利もマークした。初めてのパ・リーグ。「DH制だから打席に立たない分、ピッチャーとしては楽だなぁと思いながら投げていました。野球は(セ・リーグと)ほぼほぼ変わらない。一緒でした。でも、移動とかキャンプ地とか待遇面は厳しかったですね」と話す。

「すべてにおいて、阪神と比較したらいけないなって思いました。野球ができることをヨシとしなければいけないなってね」。先発でもリリーフでも与えられたところで全力を尽くした。「抑えには金城(基泰投手)がいたんですけど、リリーフピッチャーがいなかった。若い子が多かったんですが、彼らを先発で使おうとしていましたからね。私の役割はリリーフかなぁって思っていました」。6勝を挙げ、それなりの手応えも得た移籍1年目だった。

 だが、チームは低迷した。当時のパ・リーグは前期後期制だったが、南海は前期5位、後期6位。広瀬監督は辞任した。そして監督に就任したのが、上田氏にとっては因縁のブレイザー氏だった。「考えられませんよね。よっぽど私のことが好きだったんですかね」と苦笑しながらジョークを口にしたが、よりによっての“まさかの思い”だったに違いない。

1982年途中に阪神へ復帰した上田氏…後にブレイザー氏と“和解”

 プロ12年目の1981年、ブレイザー体制の南海で上田氏は24登板、5勝9敗、防御率4.90だった。開幕当初はリリーフだったが、5登板目の4月23日の西武戦(大阪)に先発し、1失点完投勝利でシーズン初白星をマーク。以降は先発でマウンドに上がり、阪神時代の1977年以来、4年ぶりに規定投球回にも到達した。「でも、その年も途中でファームに行ったりしましたからね」という。登板機会を得ながらもギクシャクした感じはあったそうだ。

 実際、1982年になると使われなくなった。「もう全然でした」。この年、上田氏が南海で出場したのは4試合だが、登板はなかった。4月24、25日の日本ハム戦(後楽園)で「7番・左翼」、4月27、28日の近鉄戦(日生)では「7番・中堅」でスタメンに名を連ねて打席なし。当時は予告先発制ではなく、左投手か右投手か予測できない時に出場予定のない選手を“当て馬”で起用するケースがあり、それで“出場”しただけだった。そして6月に阪神復帰が決まった。

「球団と球団の話し合いのなかで、“(阪神に)戻ってくれ”ということだった。南海には2年半だったですね」。1979年のブレイザー阪神ではオールリリーフの15登板で0勝0敗と出番が激減し、オフには南海へトレード。1981年からのブレイザー南海では、1982年に登板ゼロのまま、シーズン途中に阪神へ。そんな月日の流れだけでも、指揮官との相性が良くなかったようにも見えるが、その上で、上田氏は、こんな話も明かした。

「(阪神で)現役を辞めてから、私は阪神の選手を連れてアメリカのルーキーリーグに行ったことがあったんです。野球留学でね。その時にブレイザーが訪ねて来てくれたんですよ。だいぶ(南海時代から)時間が経っていましたし、その時に『昔のいろんなことを、いい思い出として話をしよう。食事しよう』となった。それで当時のことも聞いたんですけど『僕は何も考えていなかったよ。投手のことはみんなコーチに任せていたからね』って言われてね……」

 実際にどうだったかは、もはや関係なかった。上田氏は「わざわざ来てくれたってことがそういうことじゃないですか。だって嫌いな者はずっと嫌いでしょ。“上田がタイガースの選手を連れてきている。それじゃあ会いに行こうか”って連絡をくれただけで、もう昔あったことなんてどうでもいいと思いました。ホント、笑い話としていろんな話をして気持ちもすっきりしましたよ」。まさに時を経ての“雪解け”だった。ブレイザー氏は2005年に73歳で亡くなったが、上田氏にとって、いろんな意味でも思い出深い指揮官となっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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