元同僚が語る「努力の人」稲葉篤紀 一流の才能の裏に隠された“フォア・ザ・チーム”の意識
周囲に大きな影響を与え続けてきた稲葉
9月2日、日本ハムファイターズの稲葉篤紀が、今季限りでユニフォームを脱ぐことを表明した。20年の長きにわたった現役生活で、2000本安打を放ち、ヤクルトと日本ハムという所属した2球団でそれぞれ日本一に輝いた。2007年には首位打者を獲得するなど、選手としての経歴は華々しいものだったと言える。
愛知県で生まれた稲葉は、中京高校から法政大学へ進学し、1994年のドラフト3位でヤクルトスワローズへ入団する。当時のヤクルトは、1990年から指揮を執る野村克也監督の下、一気に強豪チームへの階段を駆け上がっていた。『野村ID野球』と呼ばれた緻密な戦略に裏打ちされたチームは、ヤクルトのイメージを一変させた。
そこに入団してきた稲葉の印象を、当時ヤクルトの1番センターに定着し、リードオフマンとしてチームを牽引していたスポーツコメンテーターの飯田哲也氏はこう語る。
「これは色んな人が言っていますが、とにかく努力の人です。一流の選手ですから才能を持ってプロに入ってきているのは当たり前なんですが、同期入団の宮本にしても稲葉にしても、ここまでやって来られたのは練習を怠らない、努力を継続できるということに尽きると思います。またその姿勢は周囲の選手にも大きな影響を与えましたし、“稲葉さんがあれだけやっているんだから僕もやならければ”という気持ちにさせる選手でしたね」
プロ野球チームに入るような選手は、当たり前のことだが、人並み外れた才能を持っている。稲葉は最終的に20年間現役生活を続け、毎年安定した成績を残してきた。しかしその裏では、才能に驕ることなく、厳しいトレーニングを当然のように日々継続してきた。
ヤクルトに入団した稲葉は、1年目から出場機会を得る。主に外野手として67試合に出場し、打率.307、8本塁打と見事な成績を残した。ヤクルト時代は怪我に泣かされることも多かったが、2001年には打率.311、25本塁打、90打点とキャリアハイの成績を残す。そして稲葉は自分の才能を試すため、2004年にFA宣言しメジャーへの移籍を希望した。しかし移籍は上手く成立せず、日本ハムへの移籍を決断する。
「ヤクルト時代は確かに怪我が多かったですが、安定した成績は常に残していました。また選手としての特長として、“フォア・ザ・チーム”の意識がとても強かったことが挙げられます。自分の成績は二の次で、常にチームの成績を中心に考えている。言うのは簡単ですが、これは簡単な事ではありません。だからこそ、日本ハムへ移籍しても、すぐにチームの中心になれたんだと思います。