「これで投手を続けられるなら…」 斎藤雅樹氏、野手転向寸前に届いた“天の声”とは
入団1年目でサイドスローに「何の抵抗もなく変えました(笑)」
巨人一筋で過ごした現役時代には、通算180勝を挙げた“平成の大エース”斎藤雅樹氏。2016年には野球殿堂入りを果たした右腕だが、沢村賞3度という功績を飾った19年に及ぶキャリアを送る上で、感謝してもしきれない人物がいるという。それが1983年の入団当時、2軍で投手コーチを務めていた木戸美摸氏だ。
埼玉の市立川口高から1982年ドラフト1位で巨人入り。期待の高卒ルーキーだったが、2軍戦でなかなか結果が出ず、守備の良さも買われてチーム内では野手転向の話も出ていたという。そんな5月のある日、多摩川グラウンドに当時1軍を率いた藤田元司監督がやってきた。
「どうやら僕を野手にしてもいいんじゃないかという話もあったところで、ドラフト1位だし、2軍の首脳陣の中でも話が割れたようで、だったら1軍監督に最終決定してもらおうという話だったと聞いています。それで藤田さんが僕のピッチングを見て『ちょっと腕を下げてごらん』と。当時、ピッチャーの中で自分だけバッティング練習させられていたのも嫌だったし、何よりピッチャーをやりたかったんだよね。だから『これでピッチャーを続けられるなら』って、何の抵抗もなくサイドスローに変えました(笑)」
実際に腕を下げて投げみると、予想以上にカーブの曲がりが良く「これは面白いな」と手応えあり。本格的にサイドスローに変更することになった斎藤氏を、つきっきりで指導してくれたのが木戸コーチだった。転向を決めた5月から、9月に2軍戦で登板するまで3か月以上も「多摩川で本当に毎日練習。木戸さんとマンツーマンで、体力強化を含めてのフォーム固めをしました」。高卒1年目で体力不足を実感していただけに「ああいう時間があったから良かったと思います」と話す。
「フォーム固めと合わせて、みっちり体を鍛える時間ができたのが良かったと思います。中途半端にすぐ試合で投げていたら、体力がなくて故障にも繋がったかもしれない。ああいう時間があったから良かったと思います。それもそうだし、今は12月と1月に監督とコーチは選手指導をしてはいけないけれど、僕たちの頃はまだなかったんですよ(1989年12月より実施)。だから1年目のオフ、基本的には12月16日で全て終了したんだけど、そこから木戸さんがピッチャー数人を連れて伊豆の土肥にわざわざ行って、12月30日まで練習に付き合ってくれたんですよ。
今、考えれば本当にありがたい話。高卒1年目のオフなんて遊ぶに決まっているんだから(笑)。自分で練習するって言っても、ちょっと走るくらい。でも、木戸さんのおかげで砂浜を走ったり山登りしたり、体を強くしてもらいました。3年くらい続いたのかな。選手会がオフの権利を勝ち取って、12月と1月が休みになった時はメチャクチャうれしかったけど(笑)。それでも木戸さんがしっかり教えてくれたことは大きかった。木戸さんがいらっしゃらなかったら、本当にあそこまで投げられなかったと思います」