42年間ユニホームを着続けた男の引退の瞬間 「マシンガン打線」の生みの親が味わった最後の5分の悲哀
トップレベルでの経験がないままプロ入り
プロの世界なのだから仕方がない――。髙木由一(64)は契約社会の掟を十分に理解していたつもりだった。だが、いざ最後の瞬間を迎えると、何とも言えない虚しさが胸いっぱいに広がるのを抑え切れない自分がいた。
「42年ですからね。現役が16年、コーチになって26年。長いとは思っていたけど、終わってみたら意外とあっさりというか……。42年間やってきたからどうのこうのという世界ではないことは自分がよく分かっています。でも、この42年の歳月があるにもかかわらず、最後の球団との話は5分ですからね。42年間やってきたのがこの5分でパタッと切れるわけですから……」
フロントとの話し合いが終わって部屋を出ると、囲み取材どころか、記者の姿すら見当たらなかった。髙木は誰もいない横浜DeNAベイスターズの球団事務所をひっそりと去った。
「複雑でしたね。寂しいというか、あっけないというか。最後は社長にもご挨拶ができなかった。42年間勤めてきて、自分はどうだったんだろうな、この終わり方でいいのかな。そういう思いはありましたね」
しみじみと紡ぎだされるその言葉は、哀切な響きを帯びていた。
髙木が横浜DeNAベイスターズの前身、大洋ホエールズに入団したのは1971年のこと。その入団の経緯は、数いる野球選手の中でもかなり特殊な部類に入るに違いない。
幼少期から経験してきた野球は遊び程度で、本格的に始めたのは高校から。しかも、入学した神奈川県相模原市の麻布大附属渕野辺高には当時、野球部が存在せず、自分たちの手で立ち上げることになった。当然、甲子園の出場経験などなく、卒業後は相模原市役所に就職。そこの硬式野球部でプレーしながら、何気なく受けた大洋の入団テストに合格してしまい、悩みに悩んだ末にプロ入りを決断した。
トップレベルで野球を経験したことがなかった髙木は最初のうちは、崖っぷちの状態が続いたが、徐々に力を発揮。「とっつぁん」の愛称で親しまれ、最盛期は背番号「6」を背負って4番も任された。オールスターゲームにも2度出場。代打起用が多かった晩年の85年には55打数21安打を記録し、3割8分2厘の高打率を残している。そして1987年のシーズン途中に現役を引退。以降、ずっと同じ球団に籍を置いて、後進の指導を続けてきた。