異色の経歴持つ指導者が見た世界の野球「日本の野球は変わっていかないと」
海外を渡り歩き、世界各国で野球に携わってきた阪長友仁氏
阪長友仁氏は大阪府交野市の出身だ。高校は新潟明訓高校に進み、1999年に夏の甲子園に出場。1回戦ではいまは亡き名将・上甲正典監督率いる宇和島東高と対戦。相手エースから本塁打を打つなど活躍し、高校卒業後は立教大学に進んで4年次には主将を務めた野球人である。
その後、一般企業勤務を経て、世界の野球の現場をつぶさに見て、学び、指導者としての見聞を広める。現在は堺ビッグボーイズのコーチとして野球少年を指導。「野球離れ」が進む中、海外での経験に裏打ちされたユニークな指導法で注目されている。そんな阪長氏が語る野球の未来にかける思いを、2回に分けてお届けする。
――阪長氏が歩んできたキャリアを教えていただけますか。
「大学を出てから2年間はサラリーマンをしていたのですが、その後、海外を巡って野球の指導者としての経験を積んできました。スリランカ、タイ、ガーナでは北京五輪の野球競技に出場するナショナルチームの監督をしていました。と言っても、チームは国内に一つしかないので、野球を知ってもらうのが主たる目的でしたが。その後、青年海外協力隊としてコロンビアで2年、さらにグアテマラでは国の開発に携わりつつ、3年いました。グアテマラにいた時に、休暇を利用して周辺国の野球を学んだのですが、ここでドミニカ共和国の野球と出会いました。そして、今度はドミニカ共和国と日本をつなぐ仕事をしたいと思ったんです」
――ドミニカ共和国の野球の、どの部分に惹かれたんですか?
「ドミニカ共和国にはMLB30球団すべてのアカデミーがあります。子供たちはそこのトライアウトに合格するために野球に励むんです。アカデミーは日本の高校生の年代です。各世代でどんなことをしているのか、それが知りたかった。彼らは最終的にはメジャーリーガーになりたい。そこから逆算して、技術やメンタルを学んでいくわけですが、子どもたちの指導者は『その根底に、もっと大事なものがある』というんです。それは『その選手が野球を好きになれるかどうか』ということです。
それがないと、いろんな技術を磨くこともできないし、激しい競争の中で最大限のものを出していくこともできない。だから、日本でいう小学生の年代は”野球好き”になることに集中する。とにかくこのスポーツは楽しい、時間も忘れて出来ると小学生のうちに思わないと、その先の可能性がないという考えなんです」