野茂や松坂を「すごいと思わなかった」 元ハム田中幸雄氏を築き上げた若手時代の経験
松坂大輔投手のでデビュー戦、田中幸雄氏は4番だった
西武といえば、やはり衝撃的だったのは、1999年4月7日の東京ドーム。西武・松坂大輔の1軍デビュー戦だった。初先発の松坂に、8回まで小笠原道大氏(現・日本ハムヘッド兼打撃コーチ)の2ランによる2点に抑えられ、初勝利を献上。初回、3番の片岡篤史氏が内角高めの155キロの速球を空振り三振したシーンが名場面として今も語り草になっている。
この試合に田中氏は4番で出場。「真っ直ぐは速いし、スライダーの切れもいい。びっくりしたけれど、こっちはプロで長くやっていた(当時14年目)から、三振だけはしたくないと必死でした」と言う。2回の第1打席は148キロの速球をジャストミートしたかに思えたが、左飛。4回の第2打席は三ゴロ。6回にピッチャー返しの中前打を放ったが、8回には内角低めの147キロに、とうとう空振り三振を喫した。その後、数多くの対戦で本塁打を放ったこともあったが、初対戦の衝撃を忘れることはなかった。
他にも、その後メジャーに打って出た近鉄・野茂英雄氏、ロッテ・伊良部秀輝氏をはじめ、パ・リーグの名だたる投手たちと対戦した田中氏だが、「相手を『すごい』と感じることはあまりなかった。常に自分の技術が足りない、練習しなきゃ、と思うだけでした。それが良かった」と言う。その背景には、田中氏が高卒1年目の1986年に早くも1軍戦14試合に出場し、翌87年には当時の高田繁監督に将来性を買われ、遊撃のレギュラーに抜擢され、打率.203に終わったものの112試合に出場した経験がある。
「清原(同い年で1年目に31本塁打を放った清原和博氏)は別格として、高卒1、2年目にプロの球に対応するのは難しいですよ。高校までストレートとカーブしか見たことがなかったので、初めてスライダーを見た時は、真っすぐに見えて振ろうとすると逃げていく、こんなボール当たらないと思いました。フォークもそう。すごいと言い始めたら、全投手がすごい。相手に感心している暇はありませんでした」と振り返る。
それでも「やっていくうちにスピードに慣れて、自分のスイングも速くなって、ボールを手元まで引き付けて打てるようになってきた。そうすると、変化球の軌道が見えてきて、対応できるようになった」と説明。「レベルの高い所に放り込まれてやっていると、自分のレベルも上がっていく。早い時期に1軍で使っていただいたことは、自分にとってプラスでした」と感謝する。
最初は蟷螂の斧のような心細さで1軍の投手に立ち向かい、キャリアを積んだ後も、一流投手に対し若い頃と同じ気持ちで臨んだことが、名球会入りを果たすまでになれた秘訣だった。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)