元巨人の150キロ右腕が歩むセカンドキャリア なぜ“うどん店”に挑んだのか?

うどんの本場である高松市の名店「中西うどん」で1年半修行

 2006年7月からは香川県高松市の讃岐うどんの名店「中西うどん」の3代目社長である河野充博氏に弟子入りした。想定外だったのは、現在の妻で当時交際中だった3歳上の久恵さんも一緒に働いたこと。「1人じゃダメだ。逃げちゃうから」という河野社長の計らいだった。家賃月3万数千円の2DKのアパートに同居し、久恵さんは天ぷら作りや接客を学び、條辺氏はうどん作りに挑んだ。

 うどんは、まず小麦粉に塩水を加えてこねる。こうしてできた生地を足で何度も踏み、踏んだものを重ねてさらに踏む。この「足踏み」が、うどんの弾力を生むのだという。その上で生地を適度な大きさに切り、指で揉みながら「団子」と呼ばれるハンドボール大の球状の物にしていく。これを「麺棒」という棒で平たく伸ばし、最後に麺の形に切って茹でる。

「団子」を作る工程で、條辺氏の親指が悲鳴を上げた。プロ野球選手時代に右肩痛を抱え続けた條辺さんが、今度は腱鞘炎に悩まされることになったのだ。「どうしたらいいですか?」と師匠の河野社長に問うと、信じられない答えが返ってきた。「やるんや! やり続ければ痛くなくなるんや!」。條辺氏は「実はうどん作りを学び始めてここでやめる人が多い。僕にとってもターニングポイントでした」と振り返る瞬間だ。

 かつての最速150キロ右腕は試練に耐えた。「辞めたいは思いませんでした。そばに妻がいましたし、河野社長が家族ぐるみで付き合ってくださったお陰です。河野社長は仕事中ほとんどしゃべりませんが、閉店後は奥さん、5人のお子さんと計9人で食事に出かけたり、休みの日に遊園地に出かけたりして、楽しかったです」。

「中西うどん」の河野社長が課した“卒業試験”の中身とは…?

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