迫る津波…生死分けた“咄嗟の右折” 柴田高の元主将、甲子園初出場の弟に託す夢【#あれから私は】
宮城・石巻市で被災、小学生3人の兄弟は跨道橋で一夜を過ごした
2011年3月11日。午後2時46分、三陸沖を震源とする巨大地震が発生した。この時、航汰さんは大街道小2年で隼翔は小1。姉は5年生だった。体育館で家族の迎えを待っていたが、父は単身赴任中。母は介護で石巻市内にある祖父宅を訪れていた。横山家の事情を知る、向かいに住む友人の母親が3人を引き取った。家の中はめちゃくちゃで余震も続いている。停電で信号は止まり、自宅前の大通りに抜ける道は車が渋滞していた。3人で外にいると、「逃げろー!」と聞こえてきた。
自宅は石巻工業港から直線で約1キロ。声の方向を見ると、住宅の間を縫って近づいてくる真っ黒な水が見えた。訳もわからず、航汰さんは海とは反対方向へ一目散に走った。姉は隼翔の手を引いて、航汰さんの後ろをついていった。140メートルほどで国道398号線に出ると、咄嗟に右へ曲がった。それを見た姉も弟と一緒に右へ。600メートルほど走った先に、日本製紙石巻工場に続く線路があり、跨道橋があった。そこから大人たちが「登ってこーい!」と叫んでいる。手を借りながら3人は4メートル以上ある、のり面を駆け上がった。航汰さんは「向かうところなんてなくて、たまたま、本当にたまたま右に曲がったんです」と不思議そうに話す。
水の威力は凄まじい。地面から30センチほどに達すれば、大人は歩行が困難になる。ましてや小学生。間一髪で助かったとはいえ、目の前で水かさは増していく。「車とかいろんな物が流されていく。これ以上、水が上がってきたらやばいなと思った。でも、そこにいるという選択肢しかありませんでした」。2キロほど離れている門脇小では火災が発生し、「石巻が燃えるぞ……」という大人の会話が聞こえてきたことを覚えている。一晩をその場で過ごした。「大人が焚き火をしてくれて。暖かかったですね。寒かったですけど、あの火は暖かかったです」。温もりが忘れられない。
翌日、3人は周囲の動きに合わせて自宅に戻る決意をする。大通りはなんとか歩けたが、住宅街は水が引いておらず、ずぶ濡れになりながら自宅に辿り着いた。「もっと水位があったら、泳いで帰ったかも」。悲惨な光景も目にしながら到着した自宅は1階の天井ギリギリまで浸水。2階で服を着替え、布団にくるまった。食事はない。フィルムを剥がし、蓋を開けたカップ麺をそのままかじった。かやくのコーンもそのまま口に入れた。「ところどころは覚えていますが、記憶がないところもあります」。両親とはもう会えないだろうと思った。生きているのかさえ、分からない。一家5人が再会できた時は「安心感がありました」。