江川卓氏がポーカーフェイスになった理由 メディアに口を閉ざした高校時代

高校時代から騒がれ、メディア対応に変化

――小学生のときからはお話が好きで、明るいキャラクターだった江川さんが、途中でポーカーフェイスといいますか、喋らない印象に変わったのは、やっぱり高校時代からですか?

「はい。ちょっと、チームメートと分裂したといえば大げさなのですが、わだかまりができてしまいまして。(メディアに)江川ばかりが取り上げられるので、僕がそのわだかまりを提供してしまっていたということになってしまう。(野手が)打って、頑張ってくれても、そのチームメートの名前ではなく、僕の名前ばかりが新聞に載ったりする。そうすると、チームの中で、なかなかうまくいかなくなっていくんですね。それを感じたときに、できるだけマスコミの方と接しない方がいいのではないか、というのが、高校生のときの自分の判断でした」

――あまりメデイアの前で話をしなくなったのは、高校3年時に甲子園に出場した1973年、全国的に大騒ぎになった頃くらいからですか?

「高校1年の秋、2年生になるくらいですね。それ(わだかまり)が春の甲子園に出てから、特にひどくなりました。17、18歳くらいだったので、私のマスコミ対応の仕方も良くなかったのだと思いますね。僕は僕なりに精一杯、やったつもりだったんですけど、それがあまり良くない方向へ進み、次々に物事が起きていってしまいました」

――法大の時は感情を表に出さないというイメージがすごく強かったです。

「(そのイメージが)大学1年生か2年生だとすると、まだチームに上級生がいるので、あんまり喋るのがよくないという雰囲気がありますね。多分、そうだと思います。ただ(自分の)態度は悪かったと思いますよ(笑)」

――その後、プロ入団する時にもいろいろとあり(空白の1日、阪神との電撃トレードで巨人入団など)、どこかのタイミングで自分を出していってもいいんだと、気が付いた時が来たのですか?

「プロ3年目くらいですかね。日本一になったところぐらいからですかね。世の中の反応が少し変わってきた。自分を少しずつ、出せていったっていう感じですかね。時期的にそう感じています」

※江川氏の3年目(1981年)の成績は20勝6敗で最多勝、最優秀防御率(2.29)、最多奪三振(221個)、最高勝率(.769)のタイトルを獲得。チームを4年ぶりのリーグ優勝に導き、8年ぶりの日本一にも導いた。

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