伝えていきたい唯一無二の経験 田澤純一が日本球界でプレーすることの意味
日本アマ球界から直接メジャー挑戦、共有されるべき貴重な経験
レッドソックスなどで活躍した田澤純一投手が、社会人野球の強豪・ENEOS野球部に加入した。田澤にとっては14年ぶり2度目の所属。高校卒業から米球界挑戦までの4年を過ごした“古巣”で、2008年を最後に巣立った後も毎年オフはENEOSのグラウンドを借りて自主トレーニングを積んでいた。ENEOS復帰と聞いて「なるほど」と頷いた人も多いだろう。
プロ・アマにかかわらず、田澤が日本球界でプレーする意味は大きい。日本のアマチュア球界から直接メジャーに挑戦し、ワールドシリーズ優勝を果たすという田澤しか味わったことのない経験は、自分だけの思い出としてしまい込むのではなく、後に続く若手や彼らをサポートする指導者らに伝えることで、さらに価値が高まり輝きを増す。同時に、トミー・ジョン手術、戦力外通告、パフォーマンスの低下など、思い通りにいかない苦しさから泥臭く這い上がってきた経験や強さもまた、共有されるべきことだろう。
ENEOSの大久保秀昭監督は2008年に田澤を送り出した後、一時は慶大を率いたが、2019年に現職へ復帰。14年の時を経て、36歳となった右腕を迎え入れることになった。この間に教え子が見せた成長について、こう語る。
「僕自身、いちファンとしての目線でずっと応援してきました。プレーヤーとしての成長はもちろんですけど、人としてのシャイな部分がだんだん言葉もしっかりと受け答えをするようになったし、自己主張もするようになった。色々な部分で本当に強くなったな、という風に思っています」
米球界で力試しをしてみたいという心の声に従った田澤の決断は、日本球界に大きなハレーションを起こした。結果として田澤ルールを生んだ“拒否反応”に、当時22歳だった若者は心を痛めたが、送り出した大久保監督も同じ痛みを味わっていたのかもしれない。米球界で「1年でも長く」活躍してほしいと思いながらも、「もう一度戻ってくるという準備は常にしていましたし、会社の方のバックアップも含めて、田澤が(復帰を)決断した時は快く引き受けてくれということは申し送りされていたこと」と、いざという時のセーフティネットを用意していたことを明かした。