日本代表に“絶望”「ボコボコにされた」 元ドラ1の拭えぬ体験「見ただけでウワーって」

元阪神の湯舟敏郎氏は大学4年で日本代表に選出された
元阪神、近鉄左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は奈良産業大(現・奈良学園大)時代、近畿学生リーグで通算26勝2敗の成績を残した。1988年の大学4年時には全日本大学野球選手権で2試合に先発して好投。日米大学野球選手権の日本代表にも選出された。だが、初の代表入りは「全然でした」と話す。「まず紅白戦でボコボコにされて、オープン戦でもボコボコで……」とほろ苦いものだったようだ。
湯舟氏は1987年の大学3年春のリーグ戦終盤に審判の判定に対して不満そうにするなど「態度が悪い」と注意され、出場停止処分を受けた。その年の秋のリーグ戦から出場できたが、奈良産大が初出場し、初戦敗退した6月の大学選手権(神宮)はベンチ入りだけで登板できなかった。悔しい思いもあったことだろうが、気持ちを切り替えて、秋からまたチームのエースとしてリーグ戦優勝に貢献。4年生になった1988年春も優勝に導いた。
当時は、関西の5つのリーグの春優勝チーム5校がトーナメントで戦い、それを制した大学が関西地区第1代表、敗者復活で勝ち残った大学が関西地区第2代表として6月の大学選手権に出場できた。「あの頃はそこに勝ち残って神宮に行けたらいいよねって感じで、それが目標でした」。そして1988年の奈良産大は前年に続き、関西地区第2代表での大学選手権出場を決めた。湯舟氏にとっては1年前の無念を晴らすチャンスでもあった。
実際、湯舟氏は神宮のマウンドで躍動した。中央学院大との1回戦に先発し、4-2での勝利に貢献し奈良産大に大学選手権初勝利をもたらした。関西地区第1代表の近大と激突した2回戦にも先発。惜しくも0-1で敗れたが「近大はその大会で優勝したし、強かったんでね。そこに1点しか取られていないっていうのは、まぁラッキーがあったとしても誇れるようなゲームでしたよね」。1年前の分まで投げ抜いた形になったことには「そこまで深い思いはなかったですけどね」と笑った。
そんな好投が評価され、湯舟氏は6月下旬から神宮球場などで開催された日米大学野球選手権の日本代表入りも果たした。しかし、ここでは結果を残せなかった。「もう全然でしたね。まず紅白戦に投げてボコボコにされて、ヤマハとの練習試合でもボコボコで……」。最初から“圧倒”されていたという。「(慶応大の)志村(亮投手)とか、これまで雑誌で見るような人ばかりでしたからね。見ただけでウワーっていうような感じ。ビッグネームすぎて近寄りがたかったし……」。
日米野球でリリーフ登板し被弾「矢のような打球でした」
慶応大の志村投手は当時、プロ大注目の左腕。最終的にはプロ入り拒否の道を選んだが、それまでは、その年のドラフトの目玉とも言われていた。「ほかにも苫篠(賢治外野手、中大)、大森(剛外野手、慶大)、野村(謙二郎内野手、駒大)とかもいたし、あぁこんな人たちがプロに行くんやなぁと思って見ていた。もう確実に別世界。僕は完全に浮き足立っていましたよ」と湯舟氏は正直な胸の内も明かした。
日本代表が3勝2敗で制した日米野球“本番”での湯舟氏は、第4戦(7月1日、水戸)と第5戦(7月3日、神宮)にリリーフで登板。第5戦では一発を浴びた。「神宮の左中間かレフトに、矢のような打球でしたね。送球ぐらいの高さで(スタンドに)入りましたよ」。大学日本代表での思い出は、どうしてもほろ苦いものが多かったようで「(当時、米国代表投手だったジム・)アボットを生で見れたのはよかったですけどね」と振り返った。
近畿学生リーグで通算26勝2敗の好成績を残した湯舟氏だが、大学時代はまだプロを意識していなかったという。「プロに行きたいという気持ちもなかった。日米に行って、みんなと差があるのもわかったし、あるスカウトには『君は社会人向きだね』って言われたこともありましたしね」。社会人野球・本田技研鈴鹿への入社も早い時期から決まっていたそうだ。そして、そこでプロへの道をたぐり寄せる。1990年、阪神からドラフト1位で指名されるまで、濃密な社会人生活2年間でさらなる飛躍を果たす。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)