独自のメジャー挑戦で世界一 田澤純一の成長を支えたもの
アマチュアから直接渡米し突き進んだ田澤
2008年9月。新日本石油ENEOSで急成長を遂げ、「アマ球界最高投手」と呼ばれていた田澤は、記者会見の席で、メジャーリーグ挑戦の意思を表明した。プロ野球でも活躍が確実視されていた右腕の“流出”は「田澤問題」と呼ばれ、大きな話題となった。その後も、同じような有力アマ選手が続出することを心配した日本野球機構(NPB)が、「田澤ルール」(日本プロ野球を経ずに渡米した場合、メジャー球団を退団後も社会人・大学生は2年間、高校生は3年間、NPBに復帰できない)を作ったほどだ。
日本国内では、田澤の決断を良しとしない野球関係者が多くいた。だがそんな批判を他所に、レッドソックスとメジャー契約を結んだ右腕は、時に壁にぶち当たりながらも、険しい道を力強く突き進んだ。1年目の2009年には、いきなりメジャーデビュー。この年は故障もあり、4回の先発を含む6試合の登板でフィニッシュしたが、この経験は田澤にとって大きな財産となった。
2010年4月の右肘靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を乗り越え、昨年は37試合に登板して防御率1・43、WHIP(1イニングあたりの安打+四球)0・955。契約の問題でマイナーに落ちることがあったものの、最下位に沈んだチームの中で、誰もが認める好成績を残した。
そして、レッドソックスのブルペンに欠かせない存在となった田澤は、昨オフに帰国した際に一人前のメジャーリーガーになったことへの自信を漂わせると同時に、2人の先輩への感謝の気持ちを明かしている。
「すべての力を使えば(メジャーでも)何とか抑えられるんじゃないかなと思いました。あとは登板数も多かったので、いい経験になった。1年目に(斎藤)隆さんと岡島(秀樹)さんと一緒にブルペンにいられたことが今、生きている。プラスになっています」