なぜハイレベルな首位打者争いとなったのか 好打者・篠塚氏が振り返る1981年
「打率3割を3年間続けられれば、打者として周りの人も認めてくれる」
「1年間、自分が打ってきた感覚というのが、これがまた次の年にどうかというもあるし、(相手の)攻め方も変わってくる。でも、それが一番間違いでしたね。考えたのが。(翌年からは)考えすぎた、というのがありました。結局、.357を打った時は、まるっきりそんなの考えなかった。攻めがどう、とか。相手のピッチャーの球種だけ分かっていて、来たものを打つ、ということですね。データはあまり好きじゃなかったから。それがちょっと失敗したかなと次の年が終わって思いましたよ。ちょっと考えすぎちゃったなと。考えないで(打席に)入るのが一番難しいんです。いろんなことが画像として残ってしまっているし、頭の中にも残ってしまっているから。
打ち方というのは1つじゃないので、こうすれば打てる、ということはない。確率が良くなるだけです。いかに確率よく、いろんなボールを捉えるにはどうしたらいいか。それはもう練習の中でやって、あとは練習でやったことが試合でできるかどうかだけです。試合でできれば自信になるし、練習でやってたことが一瞬でパッとその場で出てくる。そうなると、ある程度、体にそこそこ染み込んできてるんだなと感じるんです。練習で何もやらないでポーンと打ててしまったら、それは体に染み込んでない。だから長続きしないんです。
練習の中で打撃投手のボールを打つ時に、こういう風に打ってみようとか、ああいう風に打ってみようとか、というのをやって、それがゲームで同じようにできるというのが必要です。でも、練習ではただ(何も考えずに)打っていて、(試合では)すごく難しい球を打ってしまう選手がいる。『この選手、こんなボール打っちゃうの?』と。ただ、それはもう本人がどう感じるか。練習で打っているボールを打てれば、それはもう体が覚えているから、そこに来ても確率よく反応できるというのがあるけど、そういうことを考えないで、ただ打ってたまたまできちゃったということになると、それは長続きしない」
しっかりとテーマ、課題を持ち、練習から実戦を想定してバットを振る。天性の打撃センスに加え、努力を続けたからこそ、篠塚氏は球史に名を残す好打者として輝き続けることができた。その才能が開花したのが、打率.357を記録した1981年だったとも言える。
「1つ、自分が(プロの世界で)やっていくのにいいきっかけになったというか。あとは、長嶋監督に恩返しするというのを81年はやりながらだったので、その年にタイトルを獲ろうと思ったらあまり良くないなと思っていたんです。それで獲れたら儲けもののタイトルですから。81年は中畑さんが怪我しなかったらああいう1年にはならなかっただろうし、『謙虚にやっていこう』『この1年をこうやって乗り切っていって、その後にミスターに恩返しするのが、首位打者を獲ることだ』と。ただ、その(首位打者を獲る)前に3割を3年間打とうと、まずは思ったんですよ。打者として、あの時代は3割を3年間続けられれば、打者として周りの人も認めてくれるだろうと。ほぼそれだけでしたね。それで、81年の後も2年間は3割を打って、84年は最初から首位打者を狙っていった。それで獲っちゃったわけですけどね」
篠塚利夫(当時)の才能が開花した1981年。藤田氏とのハイレベルな首位打者争いが繰り広げられた1年は、野球ファン、そして、本人にとっても、印象深いシーズンとなった。
(Full-Count編集部)