大阪の野球人にとって「特別な場所」日生球場&藤井寺球場の記憶

照明施設のなかった藤井寺 本塁打飛び交う狭い球場で生まれた名場面

 1928年に完成した藤井寺は、2006年に解体されるまで約80年の伝統をまっとうした。建設当初の敷地面積は約5万9000平方メートルと甲子園を凌ぐ広さを誇り、内野席に大銀傘をつけた約7万人収容の大球場だった。開場後しばらくはアマチュアに使用されていたが、49年2リーグ分裂とともに近鉄が新球団を結成。球場の改修を行うとともに、50年から近鉄パールズが本拠地とした。

 藤井寺には当時、照明施設がなかった。そのため近鉄は平日夜間は大阪球場と日生を使用。週末や祝日などの昼間にしか藤井寺は使用されなかった。また日生と同様にNPBの定める「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という規定を満たさないため、日本シリーズ、オールスターが開催できない。そのため近鉄のチーム状況が良かった73年、球場の大規模改修計画が発表された。しかし、球場周辺環境の問題などで地域住民と対立。84年まで協議に時間がかかり、照明設備が完成するまで同様の状況が続いた。

 84年には鈴木啓示さんの300勝達成、89年には悲願の日本シリーズ開催など、数々の名シーンが生まれた藤井寺。80年10月3日の近鉄対ロッテ戦では1試合13本塁打。86年8月6日の近鉄対西武戦では西武が1イニング6本塁打など、球場の狭さをめぐるエピソードにもこと欠かさなかった。なお鈴木啓示さんの560被本塁打はMLBを入れても最多記録である。現在、藤井寺跡地には学校や大規模マンションが建っている。

 近鉄の一員として日生、藤井寺の両球場でプレー。しかも悲願であった藤井寺での日本シリーズにも出場した村上隆行さんは振り返る。

「時代が時代なんで、僕らはあまり球場の汚さは気にはならなかった。球場が狭かったので僕ら打者は本塁打が出やすかったのは確か。ヤジもよく聞こえましたしね。藤井寺なんて河内地方の高級住宅地なんて言われてたけど、ヤジはひどかった。でも優勝した年はそんな球場だったから、ファンの声援も力になったと思う。相手選手はうるさくて嫌だったんじゃないかな。

 89年の日本シリーズの時は異様な雰囲気。しかも、3つ最初にとったから誰もが行けるという雰囲気。それが4連敗ですからね。例の、巨人はロッテより弱い、というコメントもクローズアップされた。だから、最終戦の試合終了間際はほんまに暴動が起きるんちゃうか、という感じだった」

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