「あの国に何があるんや」―“松坂世代”の久保康友が米独立Lに挑んだ理由(上)

渡辺俊介の体験談を聞き「驚きました」…「あの国に何があるんや」

「自分はそこまで必死に食らいついてプロになった訳ではないのに、自分より頑張っても一流になれずに辞めないといけない選手がいました。そのことにずっと罪悪感があったんです。自分はこんな気持ちでプロ野球選手としてプレーしていいのかと。プロは実力の世界だし、能力があれば一流になれるんでしょうけれど、辞めなければいけなくなった選手は努力の仕方が間違っていたり能力に恵まれなかったから続けられなかっただけで、自分より野球に対する思いが強い選手はたくさんいました」

 自由契約が公示された後、「まだプロでやれるでしょう」という声もあった。でも17年のシーズンで登板したのはわずか7試合。4勝は挙げたが、納得のいく内容ではなかった。

「客観的に見て、自分の年齢(当時37歳)から考えてもチームに残る価値はないと思いました。『やれる』というのは自分を良く見積もっているだけで、チームとしては必要ないかなと。だからチームから必要がないと言われたら、その意見に従うつもりでした」

 退団後は野球を続けることすら決めていなかった。続けるにしても国内でやるのはどうしても気が進まず、その後を模索しながら年の瀬を迎えていた。シーズンオフに野球関係者をはじめ色々な人と会い、アドバイスをくれる者もいる中、ロッテ時代の先輩の渡辺俊介(現新日鉄住金かずさマジックコーチ兼投手)と食事をする機会があった。

 渡辺はロッテを退団後、アメリカやベネズエラの独立リーグでプレーした経歴を持っており、当時の経験談を聞いた。

「2年間、向こうでプレーして実際どうだったか聞くと、そこまで大変ではなかったと。それどころか『意外と何とかなるよ』って。渡辺さんって元々きっちりして、すごく細かい方なんですけれど、そんな人の口から『どうにでもなる』って言葉が出るんですから、驚きました。『あの国に何があるんや』って(笑)」

 そこからアメリカの独立リーグへの興味が徐々に強くなった。どうせなら思い切ったことをしたい。海外ならアメリカよりメキシカンリーグの方がレベルは高く、陽気な選手が多いと聞き、当初はメキシカンリーグに行くことを希望していた。エージェントを紹介してもらい、受け入れ先を探したがたどり着いたのはアメリカの独立リーグ。ある球団との契約にこぎつけ、「チケットを送るからそれで来てほしい」と言われたものの、チケットがなかなか送られて来ず、2か月以上が経過した。練習をせずにひたすら待っていたため、練習をしていなくても加入できるチームをエージェントに探してもらい、アメリカンアソシエーション(独立リーグ)に所属するゲーリーサウスショア・レイルキャッツに入団することになった。(続く)

「日本の常識が非常識」―“松坂世代”の久保康友が米独立Lに挑んだ理由(下)

(沢井史 / Fumi Sawai)

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