「登板1試合投手」からNo.1営業マンに 東京六大学から巣立った26歳の野球人生
浪人、イップス、コーチ転身…挫折と困難を乗り越え、目指した神宮のマウンド
東京六大学に憧れたのは、いとこの影響だった。明大野球部に在籍しており、神宮に観に行ったこともある。学生野球の聖地で各校の応援が響きながら、6校が優勝を争う対抗戦。「かっこいいな」という思いが幼心に芽生え、プロ野球よりも身近な存在になった。
「大学でやるからには本気で日本一を目指してやりたい。日本で一番歴史あるリーグなので、そのリーグでやりたい気持ちはずっと持ち続けていた」
庭田さんは一般入試で東大以外の5校を受験。しかし、惜しくも不合格に。選んだのは浪人という道。推薦のオファーをくれた別の大学で野球をやれる選択肢はあった。周囲には「めちゃくちゃ止められた」というが、自分の想いを貫いた。そして、1年間は完全に野球から離れた。
「浪人をしても、受からないことには元も子もない」。1日13~14時間は机に向かった。ボールを握ることも、体を動かすこともなく「絶対に受かってやる」という気持ちだけはぶらさず、勉強に没頭。その甲斐があって1年後、東京六大学への想いを作るきっかけとなった明大に合格した。
夢だった東京六大学の野球部。しかし、合格がゴールじゃない。むしろ、浪人生活より大変だったのは入学後だった。
明大は毎年のようにプロ野球選手を輩出し、甲子園で活躍した球児が全国から集まる名門中の名門。入学した当初は先輩に上原健太(現日本ハム)、柳裕也(現中日)、同級生に齋藤大将(現西武)ら、のちにドラフト1位でプロ入りする選手がズラリと揃った。
そもそも、浪人は1年間、本格的な競技から離れるハンデもあり、明大のような強豪校では珍しい。事実、入学当初の野球部で浪人経験があったのは庭田さんのみ。それでも、善波達也監督(当時)には情熱を伝えると、快く了承され、「あとは自分の力で勝ち取れ」とゲキをもらった。
「最初はめちゃくちゃキツかったです。推薦組は2月に入寮し、自分は3月の終わり。それに1年間、何もやっていなくて……」
目標は持ち続けた。もちろん、神宮のマウンドに立つこと。周りと比べ、能力が高くないことは知っていた。自分に何ができるか。「人より努力はできるという自負はあった」。だから、誰より練習し、誰より上手くなる方法を探そうと心掛けた。
しかし、名門の壁は厚く、高い。2年春にベンチ入りこそ経験したものの、登板機会はなし。後輩にも有望選手が続々と入学。すると、3年生の頃にはイップスも経験し、キャッチボールすらまともにできなかった。神宮のマウンドとの距離が遠のいていった。
4年生になる時、同級生から学生コーチを選出するが、庭田さんの学年は人数が少なく難航。選手としては“引退”を意味するもの。最終的に庭田さんが手を挙げた。内心は複雑だった。「誰かがやらないといけないけど、悔しかった」。待ったをかけたのは、意外な人物だった。
「お前、本当にそれでいいのか。選手としても続けろよ」
善波監督だった。学生コーチに手を挙げたことを報告すると、止められた。まだ結果を出してもない自分を選手としてつなぎ止めてくれた言葉。感謝をもって「選手兼学生コーチ」を受け入れた。
二足の草鞋は、苦労も倍だった。全体練習ではノックを打つなど、裏方に徹した。ランニングメニューは一緒に走った。学生コーチも走ったら、練習中はコーチとして声かけできない。だから、どんなメニューも先陣を切って「お前ら、ついて来い」と背中で引っ張った。
「プレーでは背中でついてこいとは言えなかったので。当たり前のところ、掃除とか、トレーニングとか、みんなが嫌がることを背中で引っ張る立場でいよう、と。自分の練習は全体練習が終わった後。他の学生コーチに手伝ってもらい、ピッチング練習をしていました」
そして、迎えた17年4月9日の東大戦は忘れられないものになった。