“女子硬式野球の父”が残した遺言 私財をなげうち、辿り着いた甲子園の夢舞台

大会の滞在費、運営費は「家2軒分使ったということでした」

「大会の滞在費や運営費について質問すると、口を濁すんです。二人三脚でやっていた審判部長の高橋町子さんに後で聞くと、家2軒分使ったということでした。でも、四津浩平はそんなこと一切言わない。この人のために、できることをするのが自分の使命もしくは天命だと感じました」と濱本氏は振り返る。

 四津氏は亡くなる直前の2004年に「苦節十年」と題した文章を残した。当時の参加校は10校全て私立校であったため、公立校や中国・四国地方からも出場校を望むことなどが記されている。「その文章には残していないのですが、彼はその時に『いつかは夏の決勝を甲子園で開けたらいいね』と話していました」と濱本氏は明かす。

 その遺志を現実のものにするため、濱本氏はチーム数を増やすことから始めた。北は北海道から南は沖縄まで全国各地に自費で足を運び、女子硬式野球部の創部を呼びかけた。さらに、指揮を執っていた花咲徳栄高のほかに、平成国際大女子硬式野球部とクラブチーム「ハマンジ」を立ち上げ、選手がプレーを続けられる環境を整えていった。地道な活動が実り、一昨年開催された夏の選手権の参加校は31校。加盟校は今年43校まで増えた。

 現在、春の選抜大会は埼玉・加須市、夏の選手権は兵庫・丹波市、新人戦のユース大会は愛知県で行われている。だが、濱本氏は四津氏の“遺言”とも言える甲子園での決勝戦を諦めてはいなかった。事態が大きく動いたのは昨年2月13日。日本高校野球連盟と意見交換の場を持ち、お互いの歴史や規約等を確認した。その場で甲子園での開催を求めたわけでなかったが、会合を重ねる中で、1日増える男子の休養日を使ってはどうかという提案を受け、実現にこぎつけた。

 あの“遺言”から17年。濱本氏は甲子園で行われる決勝戦後の閉会式に四津氏の遺影を持ち込み、「本部役員が持って、見せてあげたいなと思っています」と女子硬式野球の父に晴れの舞台を見てもらうつもりだ。

(石川加奈子 / Kanako Ishikawa)

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