忘れぬ懇願「僕らを見捨てないで」 中傷にも耐え38年…“騙されて”始まった監督人生
高校3年から指揮…中学軟式野球、東山クラブ・藤川豊秀総監督の“波瀾万丈”経歴
“騙されて”スタートした指導者の道。気付けば“No.1”のチームになっていた。今夏の全国大会で優勝した中学生軟式野球チーム「東山クラブ」を率いる藤川豊秀総監督は、異色の経歴を持つ。教師になる夢をあきらめ、バブルの恩恵も投げ捨て、人生の全てをチームに注いできた。
初対面で混乱する人は少なくない。想像と違って、東山クラブの藤川総監督の見た目が“若すぎる”からだ。
「童顔だと相手チームに軽く見られそうなので、15年くらい前から髭を生やしているんです」
理由は童顔だけではない。藤川さんはチームを立ち上げて38年が経つ。年齢は56歳。つまり、18歳からチームを指揮していることになる。大半の人は38年前に愛知県に初めてできた軟式のクラブチームの総監督と聞いて、70歳を超えた“老将”をイメージする。ところが、藤川さんの背筋はピンと伸び、機敏に動いている。
その名前は活動する名古屋市や愛知県内にとどまらず、全国の中学軟式野球チームや高校野球の強豪校にも知られている。今夏は「第41回全日本少年軟式野球大会」で優勝するなど、最近20年間で全国大会出場は16回。愛知県大会は優勝57回、準優勝16回を誇る。育成にも定評があり、近年ではオリックスの内藤鵬内野手やソフトバンクのイヒネ・イツア内野手らがドラフトで指名されている。
練習補助のはずが「お前が監督をやれ」…受験生に課せられた“試練”
今や名門となった東山クラブだが、驚くべき形でチームのスタートを切った。藤川さんが高校3年生、18歳当時の出来事を明かす。
「何人かいた発起人のうちの1人が私の恩師で、指導を手伝ってほしいと声をかけられました。教師になって野球部の顧問になるのが夢だったので、予行練習になるかなと思って引き受けました」
藤川さんは練習の補助をする認識でいたが、その初日、グラウンドには指導者らしき大人がおらず、自ら指揮を執った。練習は基本的に毎日組まれていたが、1週間、10日経っても大人が来ない。おかしいと思った藤川さんは恩師に電話をかけた。
「私しかグラウンドに来ないんですが、皆さんどうしているのでしょうか? と質問すると、『みんな忙しいから』と返ってきました。自分も受験生なので暇ではないと説明すると、『それはわかっているけど、お前が監督をやれ』と言われました。そこから気付いたら38年です」
季節は高校3年生の秋。藤川さんは教師になる夢を叶えるため、志望大学合格に向けて受験勉強の追い込みをかける時期だった。「このままチームの指導は続けられない。早めに選手に伝えよう」。選手に申し訳ない気持ちはあったが、監督になるのは現実的に難しかった。
「どこにも行かないですよね」監督続投を決意も…諦めた教師の夢
伝えるタイミングを見計らっていたある日、選手たちが練習後に藤川さんの前に並んだ。どこかから、チームを離れるかもしれないという噂を聞いていた。涙を浮かべながら訴えかける。
「監督、僕らを見捨てないですよね。どこにも行かないですよね」
藤川さんは笑顔で返した。「見捨てるわけないだろ」。選手たちの顔を見たら、辞めると言い出せなくなったという。志望していた大学は名古屋市外にあったため、東山クラブのグラウンドから通える大学に進路を変更した。それは、教師の夢を諦める決断でもあった。
「当時は毎日練習するのが当たり前だと思っていたので、近くの大学に行かないとチームの活動ができませんでした。監督としての役割を最優先した生活を送っていました」
思い描いていた華やかなキャンパスライフとは程遠く、大学とグラウンドを往復する日々。そして、就職も周囲とは全く違う道を選んだ。
「バブルの時代だったので、学生が企業を選べるほど好待遇で就職できる環境でした。でも、すぐに就職したら東山クラブの活動に支障をきたすと考えて、私はフリーターになりました。周りはあきれていましたね」
チーム最優先…“売り手市場”時代にフリーター→就職先潰れて途方に暮れる
藤川監督は今まで通り選手が練習できるように、時間の融通が利くボウリング場のアルバイトに就いた。1年ほどフリーターを続け、その後はチームで取り引きのあったスポーツ用品店に就職。労働時間が限られるため決して給料は良くなかったが、チームの活動を優先することに理解を示してくれたという。
平日は夕方まで働き、夕方以降と土日はチームで活動。気づけば、チーム立ち上げから8年ほどが経っていた。だが、バブルが崩壊して状況が変わった。監督を辞めて、仕事に専念してほしいと打診されたのだ。藤川さんも“潮時”と考えていた。
「すごく悩みましたが、給料が少なくて生活が厳しかったので、今いる選手たちを送り出したらチームを解散しようと決めました」
藤川さんは新規の選手募集をストップした。ところが、運命に引き戻されるように事態が一変する。勤務していたスポーツ用品店が潰れてしまったのだ。職場を失い、途方に暮れた。「働かないわけにはいかないし、選手たちの卒団まで野球も辞められない。どうすればいいんだろう」。悩んだ末に出した答えは“独立”だった。
「もう自営業をやろうと思いました。バブルが弾けたタイミングで事業を始めるのはリスクがあるとわかっていましたが、親戚からお金を借りて、経験を生かせるスポーツ用品店を新たに始めました。自営業をやりながらチームを続けていたら、ふと思ったんです。時間の自由が利くし、チームを解散しなくてよいのではないかと」
「神様から与えられた宿命」…誹謗中傷にも屈せず全身全霊で38年
藤川さんはメンバーの募集を再開した。東山クラブに全てを捧げる覚悟を決めた瞬間でもあった。
「先生になりたい夢を捨てて、大学生活での遊びもみんなの半分以下。周りが優良企業に就職する中、自分は1年間恥ずかしさに耐えながらフリーターまでしました。バブルが弾けて仕事を失い、ここで野球の監督を辞めたら自分には何も残らないと思いました。すごく悩みましたが、神様から与えられた宿命だととらえて、チームに全力を注ごうと決めました」
全身全霊で走り続けて、38年が経った。想定外の形で18歳から監督を務めた東山クラブは今、全国屈指の強豪になっている。チームが強くなり、有名になればなるほど妬みや嫉みは増える。事実無根の噂や誹謗中傷に心を痛め、「何で、ここまで言われて監督を続けなければいけないのか」と落ち込むこともあるという。
「私はほとんどお酒を飲めないのに、錦(名古屋の繁華街)で毎週豪遊しているとネットで書かれたり、デマが広がったりしています。セレクションをしていないのに夜のお店で接待しないとチームに入れない、月謝4000円なのに金儲けをしている、とも言われます。監督をしていると嫌なことの方が多いかもしれません」
監督を退けば、誹謗中傷にさらされることはなくなる。お金や時間の自由も手に入る。それでも、その選択肢はない。
「嫌なことを消し去ってくれるくらい、選手が感動させてくれるんです。だから、続けているのだと思います。そして何よりも、選手たちから必要とされていることがうれしいんです」
38年前、「見捨てないですよね」と選手たちに懇願された18歳の若き指揮官は、56歳の名将となった今も“原点”を忘れることはない。
(間淳 / Jun Aida)
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