楽天松井裕らが待つプロの世界へ 大学ジャパンの4番を支える卓越した打撃論

小学6年生で運命の出会い、現楽天の松井裕から「俺らと野球やろうよ」

 9回を終えて2-2の同点のまま。延長10回からは1死満塁、打順選択制で始まるタイブレークになり、東北福祉大は3番の楠本から攻撃した。「初球のストライクボールを見逃すと向こうに流れが行ってしまうと思った。まっすぐ系は思い切って打ちに行こうと思った」と、初球からしっかりとバットを振った。打球はセンター方向へ伸び、中堅手がフェンス手前で捕球。三塁走者がタッチアップすると、二塁走者の吉田隼は外野から内野への返球がこぼれる間にホームへ。この吉田隼の好走塁もあり、犠飛で2点を勝ち越す最高の形になった。

 ところが、その裏、2点適時打で再び、同点に追いつかれ、最後は佐藤の打球が楠本の横を襲ってサヨナラ負けを喫した。

「もう少し、低く打っておけば、フライにはなっていなかったと思う。あそこ(フェンス手前)まで飛んでくれたというよりもヒットにできなかったことの方が悔しいです。外角高めだったのでコースを逆らわずに打てたんですけど。センターのナイスキャッチ? まぁ。でも、上げないで誰もいないところに落としておけばヒットになるので。打ち上げてしまったので、まだバットコントロールができていなかった部分があったと思いました」

 バットコントロール。楠本が最も自信を持っていることだ。だからだろう。このコメントの最後の方はやや自らに怒りを込めて捲したてる感じだった。結果として2点を加える飛距離十分の犠飛だったが、外野手の間を抜く打球だったら走者一掃で3点を入れられていたかもしれない。そんな悔しさが語気を強めていた。

 楠本は大阪で生まれた。転勤族の父親の影響で小学1年の終わり頃、岡山に転居。2才頃からボールに触れていたが、野球チームに入団したのは小学4年からだ。小学6年になる時、神奈川県へ引っ越し。ここで運命の出会いが待っていた。転校先になった横浜市の山内小で「何か運動していないの?」と聞いてきた少年がいたのだが、それが、現楽天の松井裕樹だった。

「野球をやっているよ」と答えると、「俺らとやろうよ」と誘われ、元石川サンダーボルトへ入った。そして、松井裕から「一緒に受けに行こうよ」ともう1つ誘われたのは、ベイスターズジュニアのセレクションだった。ともに合格。山内中に進んでからも青葉緑東シニアで一緒にプレーした。

 幼い頃から父親の投げるバドミントンの羽を打ち返し、「そのおかげか、芯にぶつけようという意識でバットを振ったことがない」と話す。

「自分のタイミングで素直にバットを出すと、変な話、勝手に芯に当たるというか。どうやって芯にぶつけているの?ってよく、質問してもらうことがあるんですけど、答えられないというか…」

 この感覚は、花咲徳栄でさらに磨かれた。

「芯を外した1球を悔しがれ」
「芯とポイントは外さないというプライドを持っていなさい」

 花咲徳栄・岩井隆監督からそんな言葉の数々を受けながら、野球部員としては数少ない普通科の進学コースで学び、野球に打ち込んだ3年間だった。そして、この高校野球が楠本の土台になっている。

「インコースはポイントを前にして払って、アウトコースは少し引きつけて逆方向に打つ。手首を寝かせないように立てて、ヘッドも立てて走らせて打つということを一番、意識して教えてくださったのが岩井先生。インコースの時、ファウルになるのを怖がって、ポイントを前に出すのを嫌がっていたんですけど、高校3年間で、思い切って前に出せるようになった。それで、インコースを捉えることが得意になったというか。自分で自分を判断する材料として出来上がったというか。インコースを打つことに関して、プライドを持ちなさいということも言われたので、そこのボールは絶対に逃さないというのは意識して練習してきました」

 攻撃の練習中、「突っ立っている人間は怒られていた」という。常に投手のモーションに合わせてタイミングを取ることが自然と習慣になった。

「それをしなければいけない状況にあったんですけど、それがいい癖になった。100人ピッチャーがいたら、100通りの投げ方があると思っているので。同じタイミングの取り方では、すべてのピッチャーに対応することはできないですから。感覚の問題ですけど、ボールが来た時に勝手に体が動いているくらいじゃないと、タイミングは合わせようとしても合わせられないものなんじゃないかなと思います。タイミングを合わせられるような癖がついたことは、花咲徳栄に行っていてよかったなと思うことです」

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