「ウソやろ、できるわけないやん」から切り開いた道 レジェンド小西美加の野球人生
日本代表トライアウトに現れた謎の少女「お前はどこでやってきたんだ?」
インターネットがまだ一般的でない時代、とにかく足りないのは情報だった。日本代表を選ぶトライアウトでも、所属チームのない小西を誰も知らない。120キロ近いボールを投げても「実績がないので、どれだけ上手くても取れない」と言われた。チームのGMだった日本人初の大リーガー・村上雅則氏に「お前はどこでやってきたんだ?」と聞かれたほどだ。なんとか補欠選手となった。のちに3度選ばれる女子W杯日本代表へのスタートだった。
進んだ大学では、ソフトボールの選手として頭角を表した。1年生から中軸を打ち、インカレ3位の成績を残す。ただ、今度はソフトボールを続けられないという岐路が訪れた。短大から4年制への編入がかなわず、関西で女子野球のクラブチームを作ろうという話に乗った。選手3人からのスタート。チラシを作り、バッティングセンターなどあらゆるところに配った。元日本代表をはじめ腕自慢が揃っているという噂が広まり、少しずつ選手が集まり始めた。日本代表の活動に備え、アルバイトで食いつないだ。気付けば5年が経った。そして26歳になろうとするとき、女子プロ野球の発足を聞く。
最初は懐疑的だった。「作らないほうがいいですよ」という話もした。当時の女子野球に、人からお金を貰うほどの実力が備わっていないのは、プレーしている本人たちが一番良くわかっていた。小西も「無謀な世界を作っても失敗する」と考え、プロ入りの話を何度も断った。それでも、地元京都で女子野球をなんとかしようという想いに共感し、全身全霊で挑戦した。そして、プロ1年目、話題性は想像を超えていた。かつて自分も苦しんだ「情報不足」を解消できるのではと思った。注目をプラスに変えていこうという想いが芽生えた。
誰も経験のない女子プロ野球の世界。1歩づつ作っていく感覚があった。その中でぶち上げたのが、130キロへのチャレンジだ。毎日練習できるようになったのに加え、当初はリーグの方針で専門学校にも通った。プロ入りが26歳と遅く、野球と勉強の両立をしながらの寮生活。ハードな毎日だったが「夢のような生活を送らせてもらった」。最速は127キロ、柵越えホームランも記録してプロ生活は終了した。「野球の技術には頂点も、終わりもないんです。130キロ投げても極められない」。届かず終わったことで、野球の奥深さをさらに知った。
2021年から京都文教大の総監督に就任、後進を指導する機会が増えた。自ら切り開いてきた野球人生を振り返るとき、スポーツの価値は技術の向上だけではないと感じている。これから甲子園を目指そうとする少女たちに、言葉をかけるとすれば――。小西はこう口にした。
「思い切りやってもらいたいですね。上手くなるというより、困難を乗り越え、生きる力をつけるためにスポーツをやってほしい。野球であり、ソフトボールは、一つの能力だけが優れていても活躍できないスポーツ。そこが面白いんです」
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)